李舜臣といえば、韓国では豊臣秀吉軍を撃退した「英雄」とされています。

そもそも豊臣軍が撤退したのは、秀吉さんが亡くなったからですし、過大評価もいいところです。豊臣軍は猛烈に強く、もしあと2年、秀吉さんが生きていたら、朝鮮半島は秀吉さんの手に落ちていたでしょう。
歴史に「IF」はありませんので、そのような想像を巡らせても仕方がありませんが――猛者の集団だった豊臣軍の皆さんにも厭戦気分が漂っていましたので、まあ良き引き時だった――でしょう。
それはともかく、この李舜臣さんの佩刀がどのようなものだったのかをご存じでしょうか? 以下をご覧ください。
韓国の国家遺産庁が「李舜臣 長剣」として公開している二振りです。

「これ日本刀じゃねえの?」と思うのではないでしょうか。国家遺産庁の説明を以下に全文和訳します。
説明
「李舜臣 長剣」は、1963年に宝物に指定された「李舜臣遺物一括」に含まれる刀剣で、長さは約2mに達し、大きさと形がほぼ同じ一対が、それぞれ鞘を備えている。柄は木に鮫皮を巻いて赤漆を塗り、一部分のみに長方形の金属板を当てた後、革紐をX字状に交差させて巻き、紐の上に黒漆を塗ることで、柄を握った際に滑らないようにしている。
片刃の刀身は棟の方向にやや反っており、刀身の断面は、刀身の上側と下側の角度を見ると、最も一般的な六角刀断面を呈している。
刀身の上部には、李舜臣が自ら作った詩句「三尺誓天山河動色(三尺の刀で天に誓えば、山河が震え)」と「一揮掃蕩血染山河(一度振るって一掃すれば、血が山河を染める)」が刻まれており、この記録は『李忠武公全書』(1795年)の記録と一致する。
木を削って作った鞘には、佩用できるよう革紐が取り付けられている。
この刀剣は、茎(なかご:原文は슴베:引用者注)に製作時期と製作者の記録が刻まれている。
茎は柄の内部に差し込まれる尖った長い部分で、柄と刀身を結合するために必要な部分であるが、日本統治時代のガラス乾板写真を見ると、二振りとも茎に「甲午四月日造太貴連李茂生作(甲午年4月に太貴連(テ・グィリョン)と李茂生(イ・ムセン)が作った)」という同一内容が陰刻されていることが分かる。
「李舜臣 長剣」は朝鮮時代の軍用刀剣形式であり、伝統的な朝鮮式の環刀に該当する。
木製の芯の上に鮫皮を巻いて朱漆を塗った柄、手から滑らないよう突起を設けて柄の表面に取り付けた金属板、銀象嵌技法で装飾した伝統文様、刀身に刻まれた銘文と波文様、鞘の佩用装飾と革紐、鞘上端の縁金と下端の石突などは、朝鮮の刀剣に見られる伝統的な様式である。
これに、当時刀剣製造技術が発達していた日本の刀剣の要素が導入され、適用された。
茎と柄を結合した際に穴を合わせ、目釘を差し込んで固定するための目釘穴、柄をしっかり握れるよう革紐をX字状に交差させて巻く方法、刀身の反りの曲率や血溝を設ける方法などがそれである。
「李舜臣 長剣」は、以下の理由から国家指定文化遺産(国宝)に指定して保存・管理する価値が十分にある。
第一に、『李忠武公全書』の記録と一致する、刀身に刻まれた詩句を通じて、忠武公・李舜臣の歴史性を象徴する遺物として、その価値が卓越している。
第二に、柄の内部の茎に、1594年に太貴連(テ・グィリョン)、李茂生(イ・ムセン)が製作したという銘文が残されており、製作年代と製作者が明確である。
第三に、軍事史の分野においても、朝鮮刀剣の伝統的製作技法に日本の製作技法が流入し、適用された様相を明らかにすることができるため、学術的価値が高い。
第四に、刀身の鋭利さと堅牢さ、刀身に刻まれた銘文および波文様の線刻装飾の技術性、柄と鞘の縁金や環を装飾した銀象嵌技法、革・金属・漆など多様な伝統工芸の調和の取れた活用、洗練された均衡美と造形感覚など、製作技術と芸術性もまた優れており、完成度が高い。
最後に、製作年代が古いにもかかわらず、いずれも保存状態が良好な方である。
⇒参照・引用元:『国家遺産庁』「이순신 장검 (李舜臣 長劍)」
――というわけで、日本をやっつけた英雄とされる李舜臣さんの佩刀は日本刀の技術導入を行って作られた「日本刀」だったのです。

(吉田ハンチング@dcp)







