連休ですので読み物的な記事を一つ。
今や「日本刀」は世界に誇る日本の名品となっています。見た目も美しく、切れ味も素晴らしいということで美術品としてのみならず、工芸品としても高く評価されています。
武器としての日本刀については、中国の明代に多くの記述があります。なにせ倭寇の被害が甚大にあったので、日本人の武器、日本刀に注目が集まったからです。
ただし、倭寇といっても本当に日本出身の「真倭」は16世紀後半には少なくなり、中国出身の「偽倭」が7割以上を占めていました。この偽倭の皆さんは、日本人を偽装するために日本刀を装備していたのです。
日本刀を持っていても日本人とは限らず、ザパニーズだったわけです。
↑明代の武将・戚継光さん(1528~1588年)。倭寇と対峙し、後にはモンゴルと戦って成果を上げました。
中国沿岸を荒らし回った倭寇と戦っていたので、戚継光さんは日本刀についてよく知っていました。『紀効新書』に以下のように説明されています(上田信先生の『戦国日本を見た中国人』から孫引き)。
(前略)
これ(長刀)は倭が中国を犯すようになってから、中国で見られるようになった。彼(倭寇)はこれを持って跳舞し、電光石火の勢いで前に進むと、我が(明側の)兵士はすでに気を奪われている。
倭寇は飛び上がり、一っ飛びで一丈(約三メートル)あまり、刀の長さは五尺(一・五メートル)となるため、我が兵士の短い武器ではこの長い武器に応接することが難しい。
敏捷に避けられずに遭遇したものは体を両断されてしまう。
(日本の)武器は鋭利で、両手で用いるため、(加わる)力が重くなるためである。
(『紀効新書』「長刀解」)胡宗憲のもとで倭寇征伐に活躍した戚継光は、倭寇が沈静化した後には、西北で対モンゴル侵略の対策に従事することになる。
戚は対モンゴル最前線を守る兵士に、日本刀を持たせて、武力向上を図った。
(後略)※強調文字、赤アンダーラインなどは引用者による。
⇒参照・引用元:『戦国日本を見た中国人』著:上田信,講談社,2023年07月11日,第一刷発行,pp137-138
面白いのは、対モンゴル戦に当たることになった戚継光将軍が兵士に日本刀を装備させた――という点です。
――というわけで、鋭利で威力の大きい日本刀は明代の武将からも評価されていました。
朝鮮でも日本刀の優秀さは知られていました。倭剣(日本刀)についての記録があります。
筑波大学の大石純子先生の論文から引かせていただくと、『世宗実録』に、
宜寧住舩軍沈乙、嘗入日本、傳習造劒之法、鑄一劒以進、與倭劒無異。命除軍役、賜衣一襲、米豆并十石
という記述があります(1430年(世宗12年)の記事)。
宜寧の沈乙という人物が日本に行って剣の造り方の法を伝習し、一振り造って進呈したところ、和剣と変わらない出来栄えだった――と書いてあります。
さらに同じ1430年の記事に、
命知申事許誠、邀兩使臣、昌盛辭以足疾、請之再三乃至。上迎入慶會樓、設溫斟宴、尹鳳得疾先還。盛謂 上曰、願借防身倭劒及還還之。(後略)
という記事があります。
世宗王が慶會樓に昌盛と尹鳳という二人の使臣を迎えて宴席を設けたが、昌盛が身を守るのに「倭劒」を借りることを請願した。帰国の際には返却するから、という――と書いてあります。
身を守るのに倭剣を貸してくれというのですから、日本刀が優秀であることを朝鮮人が認識していたことを示す記述とえるでしょう。
⇒参照・引用元:「朝鮮文献にみられる「倭劒」と「倭劒士」に関する一考察」大石純子
※世宗は李氏朝鮮の4代目の王様で名君とされています。最も有名な業績は1446年に公布した訓民正音(ハングル:諺文)の創始です。
(吉田ハンチング@dcp)