韓国5千年の歴史の「何もなさ」。ウソでは空虚さは埋まらない

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<<重要な追記>>
初出の原稿で誤りがありましたので修正を行いました。『古事記』の成立は712年。720年は『日本書紀』です。誠に申し訳ありません。深くお詫びいたします。
<<ここまで/以下原稿>>

日本の「京都」は今や世界的な観光地で、日本の文化を体験するために世界中から多くの観光客が京都を訪れています。

韓国の皆さんは、時に「京都に韓国の文化を見る」などと言い出します。2022年11月29日、韓国メディア『中央日報(日本語版)』に傑作な記事が出ましたので、ご紹介してみます。

短歌詩人の李承信さんが散文集『なぜ京都なのか』日本語版を手に、読者に会うために日本を訪れた。

(中略)

短歌詩人・孫戸妍(ソン・ホヨン、1923~2003)の娘で詩人の李承信(イ・スンシン)さんが最近、自身のエッセイ『なぜ京都なのか』(1・2巻、ホヨングルバン)の日本語版を出版した。

李承信さんの母親の孫戸妍詩人は31字で構成された日本の伝統詩歌・短歌を日本人より巧みに書く詩人だった。

日帝強占期に日本で学んだ短歌を解放後も止めることなく60年余りの間に2000首を越える作品を書いた。短歌集『戸妍歌集』などを残し、1997年に青森県に詩碑が立てられたりもした。

李さんは「母は私たちの先祖の詩が日本に渡って短歌になったことを知り、『1000年以上消えていた私たちの詩を私だけ書いているんだ』という使命感で短歌を守った」と紹介した。

(中略)

百済(ペクチェ)滅亡後、王族や貴族、当時の知識人が京都に移住して花咲かせた文化が千年以上伝統として定着し、命脈が受け継がれてきたではないか。

私たちから消えていったものが京都にあり、京都が今日、世界最高の観光地になる土台になった。

そのとてつもないDNAが私たちから始まったのだから、そういった自負心で未来の希望をつかみ、前に進まなければならないと思った」

(後略)

「私たちの先祖の詩が日本に渡って短歌になった」などとバカなことを述べています。

「そうなんだ」などと信じてはいけません。根も葉もないウソです。

また「百済が滅亡後、王族や貴族、当時の知識人が京都に移住して花咲かせた文化が千年以上伝統として定着」などとさらっと書いていますが、これも事実ではありません。

ただの妄想です。

まず「歌」の話は置いておいて、韓国、いや朝鮮半島の「歴史」の空っぽさについて先にご紹介します。

「5千年の歴史」と豪語する空虚

日本で最初の歴史書『古事記』が成立したのは西暦でいうと712年(『日本書紀』は720年)。朝鮮半島の最初の歴史書『三国史記』は1145年です。

読者の皆さんも実際に『三国史記』を読んでみるとお分かりいただけると思いますが、これでどうやって当時の風俗や政治状況、もっといえば「国ぶり」を知れというのか、というような内容です。

中国に朝貢しました。日食がありました――みたいな記述ばかりしかなく、それで終わりなのです。

歴史学者がいくら読み込もうが内容の貧弱さ、不毛さは隠しようがありません。韓国の歴史学者が自分たちの歴史について「何もない」と嘆くしかないというのが本当のところです。

実際に高炳翊先生は以下のように述べていらっしゃいます。

「韓国の古代史書が東アジア三国のうち最も遅れて現れながら最も貧弱な資料に依拠して編まれたことは『三国史記』を少し読めば誰もが気づく。

ニ、三〇年に及ぶ王の治世を通じこれという事件もなく、遣使朝貢する記事だけ毎年でてくるかと思えば、せいぜい日食や天変地異の略載で埋められている例は一、ニに止まらず、人間と社会の記述は皆無に等しい

また、或錫憲先生は、

「誰もが嘆くのは、史料が足りないということだ。

本当に不足している。

五千年の歴史とはいうものの、残っている記録といえば高麗時代になって書かれた『三国史記』『三国遺事』くらいのものである。

その他の史料といえば中国の文献に現れる片々たるものと、時折現れる遺物の類である」

「途中ですべてなくなってしまった。……史料をあらためて集める前に韓国史はすでに説明がついたわけである。記録のない五千年の文化。これがまさに韓国の歴史である」

と述べていらっしゃいます。「失われたからないのか」は相当に疑問ですが、学者が嘆くほど「なんにもない」「何も分からない」のは事実です。

朝鮮にあった百済の「国ぶり」がほとんど何も分からないのですから、百済滅亡後に亡命者によって「どんな文化」が日本にもたらされたのか分かりません。

日本側に事物が「百済から伝わった」として残っている場合もあります。

それについては分かりますが、「百済の文化が現在の京都で花開いた」などと自己満足の弁を述べるのは、まさに噴飯物としか言いようがありません。

何度もいいますが、朝鮮半島には何も残っていないし、どんな風俗だったのか、どのような文化があったのか文献史料もないのです。歴史学者が頭をかきむしるほどに。

何を根拠の「日本に残っている」なのでしょうか。

比較のしようもないし、ただの妄想と断じるしかありません。

次に「」にいきます。

日本の『古事記』『日本書紀』には「歌」が出てきます。また『万葉集』という立派な歌集が存在し、古代からの「歌」が収録され、後代の人によって解釈され、日本人の詩情や心情を現在にまで連綿と伝えています。

この「歌」が和歌であり、古代から平安、鎌倉、室町、江戸、そして近代、現在まで続き、短歌、俳句、狂歌などの豊かなバリエーションを生んだのです。

韓国人が述べている「短歌を生んだ私たちの歌」なる朝鮮半島の「歌」はどのようなものでしょうか?

一般の日本人にはあまり知られていませんが、韓国の文学史のど頭に必ず出てくる「郷歌」というものがあります。

『三国史記』には888年に『三代目』という郷歌の歌集が作られたと書かれています。

郷歌は、万葉仮名のように「漢字の音」を借りて表記されたものですが、わずか25首しか現在まで伝わっていません。

たったの25しかないので、規則性などを見つけることなど到底できず、だいたいの意味は分かるものの、いろんな人がいろんなことを言っているだけです。

韓国の学者がひねり出した解釈から現代語訳が開陳されていますが、それで正しいのかどうかすらも分かりません。

また『三代目』という歌集について、「数千首を収めていた」などと見てきたようなことを言う人がいたりしますが、それもウソです。

何首収められていたのかについての記録などどこにもないのです。

学者の妄想に過ぎません。邪推すれば『万葉集』が約4,540首を収めたものであることから逆算、対抗してそのような妄想を広げているのではないでしょうか。

ましてや、朝鮮半島の「歌」なるものが日本に伝わって影響を与えたなどという証拠はどこにもありません。

――というわけで、詩人・李承信(イ・スンシン)さんの言っていることはウソであり、李さんの妄想と言わざるを得ません。『万葉集』は朝鮮語で読める――などという妄想と同じ次元のトンデモです。

(吉田ハンチング@dcp)

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