土曜日ですので読み物的な記事を一つ。
イランの体制転換を狙って大規模空爆を行ったアメリカ合衆国(とイスラエル)ですが、この後どうするのか(あるいはどうなるのか)――が混沌としてきました。
石油依存度の高い韓国では、今回の米イスラエル・イラン戦争でどのように安定的に原油・LNGを入手するのかが喫緊の課題として浮上しています。
実は韓国はイランには深い関わりがあります。

↑ソウル市に今も残る「テヘラン路」PHOTO(C)GoogleMap
ソウルにはテヘラン路という通りが今も残っていて、なぜイランの首都の名称がついた道があるのか知らない方も多いでしょう。
テヘラン路について、黒田勝弘先生の著作『ぼくのソウル白書』から引いてみます。
(前略)
漢江の南、いわゆる江南に「テヘラン路」と称する大きな通りがある。オリンピック・スタジアムの南側を通っている道路で、このあたりではいま、「オリンピック路」と称している。したがって正確にいえば、オリンピック・スタジアムから西のほう、江南警察署前を通って瑞草洞あたりまで、東西に走る道路が「テヘラン路」である。
(中略)
それにはまず、なぜソウルに「テヘラン路」があるのかを説明しなければならない。
ぼくの「テヘラン路」にかかわる連想ゲームは、実はフレッシュにはほど遠い韓国の懐メロ『大地の港』
である。この歌のタイトルは正確には『大地の港口』という。しかし日本語には「港口」という言葉はない。訳せば単に「港」となる。
この懐メロは、ぼくの好きな韓国歌謡の何番目かに入っている。
韓国の歌の本によると一九三七年(昭和十二年)のヒット曲だから、日本植民地時代、いわゆる「日帝時代」の歌だ。
しかも「当時、日本人たちは大陸進出の目的でこのたぐいの歌を多く症例した」とあり、侵略か進出かはともかく、その当時の典型的な日本風の歌である。
(中略)
「テヘラン路」は一九七七年、イランの首都テヘランとソウルとの姉妹都市縁組みを記念して、それまで「三陵路」と呼ばれていた通りを変更し、命名された。
当時、テヘランにも、同じく「ソウル路」が誕生したという。
サウジアラビアとともに、中東の二大産油国であるイランとの関係は、韓国にとって七〇年代の中東進出の柱だった。とくに、イランはパーレビー体制化の近代化で、どこか韓国と通じる一面を持っていた。
韓国とイランの蜜月時代でもあった。
(中略)
ホメイニ時代に入り、韓国とイランの関係がとだえた。
建設労働者をはじめとする出稼ぎの韓国人たちは、引き揚げを余儀なくされた。テヘランから「ソウル路」もなくなったという。
(後略)⇒参照・引用元:『ぼくのソウル白書』著:黒田勝弘,徳間書店,1994年08月15日 初刷,pp52-57
当時、韓国は中東に多くの労働者を派遣していました。イランでも同じで、韓国の皆さんは都市建設に従事していたのです。かつて日本であった満蒙開拓団ではありませんが、韓国人は中東の仕事現場で汗を流して新しいイランを建設するのを助けました。
イラン人も訪韓していました。
黒田勝弘先生は、1978~1979年にソウルの『延世大学』に語学留学しており、そのときにイランの若者たちが韓国企業の招きで訪韓し、韓国語を学んでいたのをリアルタイムで見ていらっしゃいます。
黒田先生によれば、70年代末の留学時代に「ラジオの懐メロ番組で『大地の港口』が毎日のように流れていた」そうです。
↑YouTube『거발한』チャンネルに上がっている『大地の港』(1939年)。ペク・ニョンソル ― 大地の港(1939年)[作詞:ナム・ヘリム/作曲:イ・ジェホ]
日本併合時代の懐メロが1970年代に評価されるというのも面白いですが、折しも韓国は「漢江の奇跡」の時代でした。新しく国がどんどん発展していくという感覚が、大陸進出という背景を持つ楽曲に響き合うところがあったのかもしれません。
この本内で黒田先生は、「テヘランから「ソウル路」もなくなったという」と書いていらっしゃいますが、この伝聞情報は間違っています。
少なくともGoogleMapを見る限り、イランのテヘランに「Seoul Street(ソウルストリート)」は以下のように2026年時点でも存在します。

↑綴りも「Seoul」ですから、これは韓国のソウルに間違いありません。
このようなイラン・韓国の友好関係がエールの交換のようにして行われた「通りの命名」という形で残っているのはとても良いことでしょう。
(吉田ハンチング@dcp)





