韓国メディアや韓国識者の皆さんは、「日本に○○○された」「アメリカ合衆国に○○○された」と自身が被害者であると表明することが多々あります。
「○○○に後頭部を殴られた」もそのような表現の一つで、友好国や同盟国はすべからく「韓国の望むとおりに動かなければならない」という前提で考えており、それが少しでも違うとすぐに「血盟だったのに」「同盟国だったはず」などと怒るのです。
全く度し難い話ですが、韓国が認める友邦関係というのは、「恋人のように」「親子のように」切っても来れない関係、「無条件に自分を肯定してくれる存在」といったものなので、とても「よその国がなれるもの」ではありません。
甘ったれといえば全くそのとおりで、つまり韓国とは(口にはしますが)「Win-Winの関係」など築くのは不可能です。
なぜなら、韓国が求めているものは「どんなときでも韓国が無条件に利益を得る関係」だからです。
「そんな要求を許容する国はない」のですが、韓国からすると「なぜ韓国の希望を容れないのだ」になります。
容れない理由は「あんたのお母さんじゃないから」ですが、韓国にはこれが理解できず、そのため、「○○○された」という被害者の言い分を口にするのです。
関川夏央先生は以下のように述べていらっしゃいます。
(前略)
関川 韓国の人たちと近代史の話をしていて違和感があるのは、「~された」という受け身のかたちだけで歴史を語ることです。「朝鮮は日本に侵略された」「朝鮮半島は南北に分断された」と、必ず自分が被害者となる。
これは、「自己中心性」の別のかたちのあらわれでしょうが、しかし、それではいつまで経っても、歴史を自分のものとして責任を持つことが出来ないと思うのです。
これも無理からぬところがあって、韓国は世界史において積極的な役割を一度も果たし得なかった。
ちゃんとした戦争も、ちゃんとした革命もやらなかった。
いわば「主体性」を持てなかった。
そういうことが深い傷となって、いまなお苛立ち、悲しみ、悔しさとして続いているので、それが反日として結晶するんですね。
悲劇の原因を、すべて他者に求めようとするのです。
(後略)⇒参照・引用元:『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』編:鄭大均、古田博司,2006年(平成18年)08月20日 第1刷発行,「韓国・北朝鮮『自己絶対主義正義』の心理構造」著:櫻井よしこ(ジャーナリスト)、関川夏央(作家)、古田博司(筑波大学教授),pp24-25
※強調文字、赤アンダーラインは引用者による。
日韓首脳会談がまもなく開催されるという話が出ていますが(『Reuters』は2022年11月13日と報道)、岸田文雄首相が安易な妥協をしないように祈念せずにはいられません。
日本は日本で「話し合えば分かり合えるはず」という幼稚な考えを捨てることです。
(吉田ハンチング@dcp)