中華人民共和国の、いや毛沢東の大失敗といえば「文化大革命」。略して「文革」。
この文革は、現在でも中国共産党の黒歴史として悪目立ちしています。

例えばYouTubeには、現在でも文革によって〇〇万人が死んだ、あるいは中国共産党・毛沢東の指導のせいで〇〇万人が殺された――という解説動画がたくさんあります。
なぜこれほど多くの動画があるかというと、たくさんの人に閲覧されるからです。なぜ〇〇万人もの人が犠牲になったのか、その愚かな運動がどんなものだったのか――が面白いからです。
文化大革命は、毛沢東が1966年に始め、1976年の死去まで約10年間続いた、中国全土を巻き込む政治運動です。「資本主義の復活を防ぐ」「古い思想・文化を打破する」と掲げましたが、その本質は、毛沢東が政敵を排除し、自らへの権力集中を進める闘争でした。
しかし、「古い思想・文化を打破する」という過激な運動は中国に衝撃を与えました。
「紅衛兵」と呼ばれる若者たちが、毛沢東の呼びかけを受け、党幹部、教師、知識人などを「反革命」として糾弾。迫害と破壊が全国に広がりました。
公開のつるし上げ、暴行、拷問、殺害が起き、寺院・文化財・書物なども破壊されました。党組織や軍も迫害に関与し、派閥間の武力衝突も発生しました。
教育・経済・家庭生活が大きく損なわれました。 学校教育や研究が停滞し、多数の都市の若者が農村へ送られました。犠牲者数には諸説があり、確定していません。
このような動きは「食」にも広がりました。清の時代から続く名門料理店などが吊し上げに遭い、この時期に「味」が途絶するなど「中国の食」に大打撃を与えたのです。
1958年に始まる「大躍進」時代には、「居民食堂」が登場しています。

↑北京市・趙登禹路の居民食堂、1960年03月/『中国青年報』の記者・舒野が撮影した写真。
「居民食堂」というのは、都市の住宅街ごとに置かれた住民組織「居民委員会」が、都市の近隣住民向けにつくった共同食堂です。
各家庭の炊事をまとめて引き受け、住民に食事を提供する仕組みでした。
居民食堂の狙いは――、
女性を生産労働に動員するため
毎日、家族の食事を作っていては工場などで働けないため、地域の食堂が炊事を引き受ける仕組みにしました。
食事作りを集団化するため
炊事や育児を家庭だけの仕事とせず、食堂や託児所が共同で担う「家事労働の社会化」を進めました。
燃料・食料・人手を節約するため
家ごとに火をおこして調理するより、まとめて調理する方が効率的だとされました。
――でした。この時代は、美味しいものが大好きな中国の皆さんが、集団で「まずいものを食べる」ことを強要された「歴史上、他に類を見ない時代」でした。
勝見洋一先生の名著『中国料理の迷宮』から、どのような味だったのかを引いてみます。
(前略)
私が体験した七〇年の居民食堂は、こんなありさまだった。まず入ると毛沢東の石膏像。
その周囲にも、太陽に向かって手を振り人民の中央に立つ輝かしい毛沢東のポスター、その時々の政治闘争のスローガンなどが張り巡らされている。
七〇年代はじめまで、食堂に入るには石膏像やポスターに向かって、朝には毛沢東への報告、夕には一日の自分の革命的行動を起立して述べなければならなかった。
そうでなくとも、壁や机を巨大なオタマでばんばん叩いて威嚇する居民委員会のオバサンに強要されて、毛沢東語録の暗誦をもとめられた。
どんなに粗末な食事であろうと、それで食べられるのは偉大な領袖毛沢東同士のおかげなのである。そして粗末であればあるほど、それは富裕階級妥当の革命的行動なのだから、称賛されるべきなのだった。
つまり、旨いものなど絶対に出てくるわけはない。
料理は、熱菜(温かい料理)がひとつにスープと饅頭一個。
しかい熱菜だからといって、注文があるたびに作るわけではない。
作りおきを何度か暖めなおすだけ。スープはお湯のようなもの。饅頭は塩味だけが効いた、ぼそぼその黄色いトウモロコシ饅頭である。
私が最初に体験したのは白菜と春雨の炒め物だった。白菜は白くて固い部分だけで、入っていた春雨は何本か勘定できるほどだった。白菜だけが流通している時期には白菜料理だけ。夏はほうれん草やトマトだけのメニューが何カ月も続くのである。
政府関係者に同行してもらって、何度か居民委員会の食堂に行った。
彼らから条件が付けられた。中国人にはありえない派手な服装をして行ってくれ。そのほうが安全なのだ。
そんな一目で日本人とわかる私に、笑いかけるような無防備な人は誰もいなかった。
こちらからすればどんなものが食べられるのか興味津々だったからだったが、そのまずさには驚いた。
入った食堂の調理師が悪いのだと思い、別の店にも同行を求めた。しかし規格品のように同じ味だった。
そして私の主な仕事先である中央文物研究所の食堂も、コピーしたように同じ味だった。そのはずで、研究所の食堂も地区の居民委員会の指導も受けていたのだった。
水っぽくて酸っぱい、これに尽きた。
黒酢の酸味も含まれていたが、それ以上に不思議な酸味で、当時使っていた油脂まぶしの悪質なコークスの匂いが染み付いたのだろうという意見もあるが、どちらにしても貧しく淋しい味なのだ。
日本で日本人がどんなにおいしい中国料理を食べているのか教えてあげたいほどだったが、さすがに口をつぐんだ。
七◯年でこの有様なのだから、それ以前が思いやられるではないか。
当時の北京の居民食堂はどこでも食料券両斤(一キロ)で二・六角に相当した。
文革終了後、しばらくして開放経済が提案されたときにはもう居民食堂はなくなっていた。
私が最後に居民食堂に行ったのは七七年で、そのときにはほんの少しメニューも向上していて、野菜の炒め物と醬醬麺で、一人分食糧券半斤と現金一・五角だった。
今でも居民食堂の何割かは国営の料理店に鞍替えしていて、サービスの悪さも旧態依然とした居民委員会のオバサンなみ。
それでも通うのが市民の中の古参党員というものらしく、ある程度の客が入っているのが面白い。
それにしてもこの文革の時期、中国人全体がその膨大な歴史の中でも貧しいものを食べていたということは否定できない。
素材はもちろん、調理技術においてでもある。
(後略)⇒参照・引用元:『中国料理の迷宮』著:勝見洋一,講談社現代新書,2000年05月20日 第一刷発行,pp151-153
勝見洋一先生は、当時の居民食堂がどのような食事を提供していたのかを実際に味わった稀有な人です。勝見先生は、この最もまずかったこの時代に、しかし最も洗練された中国料理も経験しています。
庶民が粗食を強要されている裏で、一部の軍将校などは贅を尽くした料理を内緒で食べていたからです。
1972年、勝見洋一先生は、林彪の息子・林立果がつくった巨鹿路招待所で絶品の料理に舌鼓を打ったとのこと。中国料理(決して中華料理ではない)の粋を味わいたければ、料理人のツテをたどってたどりつくしかないのです。
――それはともかく、中国共産党と毛沢東は「中国の食」に多大な被害を与えたことを忘れてはなりません。
(吉田ハンチング@dcp)

