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韓国のお気楽な悪玉探し史観「米国・日本が思いどおり動かない」

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韓国は政府、議員、与野党、国民の皆さんを問わず、何かというと「他人ひとのせい」にしがちです。

相手が自分の思いどおりに動かないとすぐに「後頭部を殴られた」などと言い出すのも、「他人ひとのせい」する言動のバリエーションに過ぎません。

田中明先生の至言をご紹介します。以下に引いた文章は、「5.18(光州事件)についての田中先生の論評」を批判した鄭敬謨先生への反論です。

(前略)
朝鮮史をひもとけば、義に殉じた志士・烈士の数は枚挙にいとまがない。そして、その伝統は今に受け継がれている。にもかかわらず韓国民の願う民主化が実現されず、さらにはいまいたましい流血の惨事が起こった。

だからこそ「なぜ」の究明が緊要だと思うのだが、鄭敬謨氏には、それが朝鮮には民主主義が不可能ときめつけているように見えるらしい。

そして、そこに日本人の優越感を見いだしたり、日本の民主主義の根の浅さをからかったりしている。

日本の民主主義は自生のものではなく、敗戦で外国の力によって制度化されたものであって、別に優越感の材料にもならぬが、それにしても韓国の民主化問題を語っているところに、なぜ「日本だってダメじゃないか」が出てくるのであろう。

おのが国の流血事件という大変な事態に接しながら、誠にのんびりとした話である。

おそらく鄭敬謨氏流の人には、右の「にもかかわらず」が含む思想的なバネというものがないのではないか。

なぜなら、鄭氏たちは朝鮮史の弱点をみずから引き受けて、それをくつがえそうとする意志を鍛錬するよりは、あのときはああいう悪いヤツらのせいでダメだったと、悪玉探しを[他人ひとのせいにする」ことで、ことをすませているからである。

こうした考え方によると、李朝末の亡国は五族のせいであり、現代の場合なら朴正煕や全斗煥という悪玉のおかげということで話が済む。

これはまことに気楽な史観である。

だが、こういう思考では、良い支配者を頭に頂きさえすれば万事オーケーということになり、名君待望論は助長しえても、自分たちの手で自分たちの指導者を生み出そうとする思想、すなわち民主主義思想は出てこまい。

悪玉攻撃の声高さのために錯覚する人があるかもしれないが、これは歴史への主体的な参画とはほど遠い姿勢である。

したがって、これの行きつく先は、アメリカ人や日本人が自分たちの思い通りに動かぬといってヒステリックになることぐらいであろう。
(後略)

強調文字、赤アンダーラインは引用者による。
⇒参照・引用元:『常識的朝鮮論のすすめ』著:田中明,朝日新聞社,1981年07月30日 第1刷発行,pp108-109

ご注目いただきたいのは最後の一文です。

これの行くつき先は――として、「アメリカ合衆国や日本が韓国の思いどおりに動かないからといってヒステリックになることぐらい」――と予見されていますが(初出:1980年06月05日付『朝日新聞』夕刊)、全くそのとおりになりました。

田中明先生の凄みは、朝鮮の歴史を熟知した上で現在に通じるエッセンスを自家薬籠中の物とし、現代の私達に的確な視角を与えてくれることです。

合衆国や日本の関心をいかに引くかだけを考えていることが社会運動といえるのか、という非常に厳しい指弾でしたが、韓国の場合、これが社会運動だけではなく、政治・外交(それに経済)にも通底しています。

朴槿恵(パク・クネ)大統領さえ引きずり下ろせば……とローソクに火をつけてみれば、大統領になったのはボンクラ極まる人物でした。アメリカ合衆国の要人と自国大統領が会うたびに「通貨スワップ」を連呼するメディアと識者。

「あいつさえいれば」「あいつさえいなければ」と外の興味や関与だけを望み、他人ひとのせいにしないと収まらないという「どうしようもなさ」は一体なんでしょうか。

韓国は「“他人ひとのせい”にするお気楽な史観に則った国」で、それは現在も変わらず、一事が万事そのような態度で貫かれています。

その証拠に、現在、韓国の最大野党『共に民主党』は「尹錫悦(ユン・ソギョル)さえいなくなれば……」「韓東勳(ハン・ドンフン)さえ罷免できれば……」と躍起になって倒閣運動を行っています。

(日本からすれば絶対に締結すべきではない)日韓通貨スワップも同じです。「ハードカレンシーを持つ国と通貨スワップさえ結べれば……」などとお気楽に考えているのです。全く持って度し難い話です。

(吉田ハンチング@dcp)

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