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父「習仲勲」と息子「習近平」――「歴史の皮肉」を体現する親子

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中国の習近平総書記の5歳年下の弟は「習遠平」さんです。兄弟で「近い」-「遠い」という対になっているのは面白いですが、習近平さんのお父さんについてはご存じでしょうか。

上掲写真が、習近平・遠平兄弟の父親・習仲勲さんです。

上掲は、最近、軍を視察した際の習近平さん。晩年のお父さんにそっくりですね。

ちなみに習近平さんは、習仲勲さんの次男です。習近平さんの兄にあたる長男は「習正寧」さんで、幼少期に不幸にも亡くなったとされています。

習仲勲は3回失脚したが復活した

習仲勲さんは、中国における共産党革命第一世代といっていい人です。最終的には全国人民代表大会常務委員会副委員長まで務めました。1913年10月15生まれで、亡くなったのは2002年05月24日です。

革命第一世代に属するので、へたを打って一歩間違えたらどこかで吊るされていたかも……という波乱万丈な生涯を送りました。

結構な重職にあったのに、3回も失脚しています。

1回目は1935年10月
当時、陝西・甘粛辺区ソビエト管区の主席だった習仲勲さんは、中国共産党が実施した「陝北の粛清」で「反革命の首謀者」と見なされ、危うく生き埋めにされるところでした。

2回目は1962年09月
当時、国務院副総理兼事務総長だった習仲勲さんは、毛沢東シンパグループによって「小説を利用して反党を企てた」として「反党グループの首謀者」とされ、16年にわたって迫害を受けました。


これがいわゆる「小説『劉志丹』事件」です。陝西省の革命家・劉志丹を題材とし、著者たちが劉の功績を称賛した内容でした。しかし、物語の内容が当時の党内闘争を暗に批判していると見なされ、習仲勲さんがこの小説の発行を支持したために、「党批判」として追及を受けました。

3回目は1990年10月
当時、全国人民代表大会副委員長だった習仲勲は、幾つかの重大な問題で鄧小平さんと意見が対立したことから、「降板」させられ、深センへ「流される」形になりました。

経済特区を鄧小平に認めさせた!?

3回目の失脚の前に習仲勲さんは非常に重要な働きをしたことになっています。Wikipediaから引いてみると、こんな具合です。

(前略)
彼(習仲勲)が初めて広東省に赴任した際、1951年以来、広東省政府は香港への中国人の流出を食い止めるために長年苦闘してきたと聞かされた。

当時、広東省の日給は平均0.70元で、香港の賃金の約100分の1であった。

習仲勲は生活水準の格差を理解し、広東省の経済自由化を訴えた。

そのためには、市場経済に懐疑的な北京の指導者たちを説得する必要があった。

1979年04月の会議で、彼は鄧小平を説得し、広東省が独自の対外貿易政策を決定することを許可し、香港およびマカオとの省境沿い、および海外在住の華僑が多い汕頭の試験的地域プロジェクトに外国からの投資を呼び込むことを許可させた。

試験的地域の名称については、

『特区』と呼ぼう。陝西省と甘粛省の省境地域は、元々は『特区』として始まったのだから」と。

ゲリラ戦の時代から引用した言葉で、鄧小平は習仲勲にこう告げた。

「道を切り開くためには、血みどろの戦いを戦うしかないのだ」

習仲勲は特別区の創設に関する正式な提案を提出し、後に経済特区と名付けられた。

1979年07月には、党中央と国務院が最初の4つの経済特区の創設を承認した。
(後略)

⇒参照・引用元:『Wikipedia』「Xi Zhongxun」

この経緯が正しいのであれば、中国の経済発展の源流の部分で習仲勲さんは重要な働きをしたことになります。

習近平のメンツのかかった国家プロジェクトがゴーストタウン化。
読者の皆さんは中国の「雄安新区」をご存じでしょうか。習近平総書記のメンツのかかった一大プロジェクトなのですが、それが……という話です。まず雄安新区について簡単にご説明します。ご存じの方は次の小見出しまで飛ばしてください。雄安新区とは?鄧小平...

先の上掲記事でご紹介しましたが、習近平さんが雄安新区の開発について非常に注力しており、

●鄧小平の「深セン経済特区」
●江沢民の「浦東新区」
●習近平の「雄安新区」

と並び立つよう「習近平が歴史に残るため無理をしている」といわれます。

しかし、上掲のようにそもそも「深セン経済特区」が、習仲勲さんが鄧小平さんを一生懸命説得して実現したのであれば、習仲勲さんは国家首席ではなかったものの、

●習仲勲の「深セン経済特区」

でもあるわけです。

もしかしたら、習近平さんは「オヤジ見てろよ。鄧小平に功績を奪われてしまったけど、オレがオヤジの代わりに新しい国を代表する経済特区を造ってやる」という気持ちで、注力しているのかもしれません。

息子はオヤジの言葉をどう聞くか

親子二代に渡る経済開発、中国の発展にかけた想い――とすると、ある種「ちょっといい話」かもしれないのですが、「歴史の皮肉」もあるのです。

――というのは、1990年に失脚する原因となったのは、習仲勲さんは鄧小平さんと衝突したこと(とされているの)ですが――それが「政治改革と言論の自由」「少数民族政策」であったというのです。

1990年10月30日、習仲勲さんが「失脚」する前日、全国人民代表大会常務委員会の場で、

「不要把不同意见者看成“反对派”,更不要打成“反动派”,要保护不同意见,要重视和研究不同意见」
異なる意見を持つ者を『反対派』と見なしたり、『反動派』とするべきではなく、異なる意見を保護し、それを重視して研究するべきだ

と発言していた――とのこと。

――ところが、息子の習近平さんは総書記となった後、言論統制を強化し、2024年現在、中国は世界でも比べるものがないほどの監視国家になっています。

習仲勲さんがもし生きていたら、息子が造り上げたこの監視国家を見て何と言うでしょうか。

また、習近平さんは父親の言葉をどう聞くのでしょうか。


↑習仲勲さんの車椅子を押す習近平さん。在りし日の習ファミリーの姿。

(吉田ハンチング@dcp)

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