韓国人に盗まれた「対馬の観音像」13年ぶりに帰還へ

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2012年に長崎県・対馬市の観音寺から盗まれた「観世音菩薩坐像」は韓国内で発見されました。

韓国人の窃盗団が観音寺から盗み出したのです。

2013年には窃盗団から回収されたのですが、韓国・忠清南道瑞山市の浮石寺が「もともと同寺にあったものを倭寇が盗んで日本に持っていったもの。返却しない」――と所有権を主張。

このため「日本の観音寺に返せ」と裁判になりました。

2017年01月26日に大田地方裁判所は「さまざまな証拠に基づいて、倭寇が異常な方法で仏像を持ち去ったと見るのが正しい」という判決を出していたのですが、当然控訴。

2023年02月01日、韓国・大田高等裁判所第1民事部(裁判長パク・ソンジュン)は、「略奪文化財であっても所有意思を持って長期間所有した場合、取得時効が認められる」とし、「所有権は日本側にある」と控訴審に判決を下しました。

原告「韓国・浮石寺」はこれに控訴し、裁判は大法院(最高裁判所に相当)にもちこまれます。

2023年10月26日、大法院は「観音寺」の所有権を認める判決を下しました。これにより、韓国・浮石寺が提起した上告は棄却され、二審判決が確定しました。

このとき浮石寺側は、

不法的な略奪を合法化した卑劣な判決であり、韓国大法院は国を守るために倒れた高麗人の背中にナイフを突き刺した

と判決に対して不満を述べています。

しかし大法院での判決は「所有権は日本側にある」と法理に従った判決を出しています。

ところが――です。

浮石寺は、観世音菩薩坐像の返還が決定した後も、仏像を一定期間留め置くよう要請しました。

その理由は、仏像が高麗時代に同寺で造られたとされ、長年にわたり信仰の対象としてきたため、返還前に法要を行いたいというものでした。

具体的には、仏像を「レンタル」という形で一時的に留め置き、法要を終えた後に返還することを希望しました。


↑2025年01月24日、返還手続きが行わた後の式典で、挨拶をする観音寺の田中節孝前住職。

「なにが一時留め置きだ。さっさと返せ」ですが、2025年01月、韓国の浮石寺で100日間の法要が行われ、05月10日に観音寺に引き渡され、12日に対馬に戻る予定となったのです。


↑2025年05月10日、韓国の浮石寺から搬出される観音像。

2025年05月12日にようやく「観世音菩薩坐像」が対馬市・観音寺の手に戻ります。

尹錫悦(ユン・ソギョル)さんが大統領から罷免され、政権交代が行われようとしているドサクサ、その間隙をついての返還――のようにも見えますが、とりあえずは本当に帰ってきて良かったです。

「13年」も掛かりましたが、やっと観音像が戻ります。

「韓国とは関わらない」のが一番

韓国『聯合ニュース』の記事が面白いので、一部を以下に引きます。

5月10日、忠清南道瑞山市の浮石寺で、金銅観世音菩薩坐像の日本返還に向けた奉送法会が行われている。金銅観世音菩薩坐像は1330年頃、浮石寺に安置されたが、1378年に倭寇によって略奪された。その後、2012年に窃盗犯によって韓国国内に密かに持ち込まれた。法的紛争の末、日本の所有権が認められ、日本に戻る前の100日間、浮石寺で一般公開された。

(中略)

奉送法会の後、金銅観世音菩薩坐像は非公開で鑑定と梱包が行われ、文化財の特殊輸送車両に載せられ、雨と霧に包まれた浮石寺を後にした。

これは、2012年10月に窃盗犯が日本の対馬・観音寺から盗み出して韓国国内に持ち込んでから12年7カ月ぶりであり、今年01月24日に親見法会のために浮石寺に到着してから106日ぶりである。

浮石寺の住職・元祐(ウォンウ)スニム(お坊さんに対する敬称:引用者注)は「略奪文化財や本来あった場所を離れた文化財に対する新たな視点が確立され、文化遺産の価値が十分に発揮できるよう、日韓両国が協力して世界的な模範となることを願う」と述べ、「私たちの物語はここから再び始まる」と話した。

この日の奉送法会には、観音寺の前住職である田中節孝氏も出席した。

彼は「『終わり良ければすべて良し』という言葉のとおり、仏像をめぐる問題がうまく解決されて良かった」とし、「浮石寺側が希望する文化財交流展示などについては、長崎県や政府と協議すべき問題だ」と述べた。
(後略)

⇒参照・引用元:『聯合ニュース』「왜구 약탈 647년 만에 고향 찾았던 고려 불상, 일본 향해 떠났다」

まず「金銅観世音菩薩坐像は1330年頃、浮石寺に安置されたが、1378年に倭寇によって略奪された」と書いていますが、これには根拠がありません。

この仏像(観世音菩薩坐像)には「結縁文(けちえんもん)」と呼ばれる銘文があり、そこには以下のような趣旨の内容が刻まれています:

「この仏像は1330年頃に西州(現・忠清南道瑞山)にある寺に安置するために造られた」

しかし、この「西州の寺」が現在の浮石寺と同一かどうかは断定できません。地理的に符合するというだけで、他の寺である可能性も否定できないのです。

浮石寺側は、以下の論拠に基づいて「倭寇に略奪された」と主張しています:

●1378年に浮石寺が倭寇に襲撃されたという歴史記録(『瑞山市史』などに記録あり)
●仏像が韓国国内から失われた時期と重なる
●仏像が現在、対馬の観音寺にあった

しかし、これは自分たちによって都合の良い状況証拠を挙げただけであって、決定的証拠(当時の略奪の記録や持ち出しを証明する文書、証言など)は全く存在していません。

日本・観音寺側および多くの専門家は、

●過去の合法的な取引・譲渡によって日本に入った可能性もある
●倭寇による略奪と断定するのは飛躍がある(上記のとおり直接的な根拠は何もない)

と反論しています。

つまり韓国の浮石寺の主張は、あやふやな根拠を基にした「いい加減なもの」なのです。

また、浮石寺側は、金銅観世音菩薩坐像の複製2点を制作し、1点は研究用に活用し、もう1点は初めて制作された当時のように金銅を施して安置するため、3Dスキャンへの協力を要求しているのですが、日本側は返答していません。

面白いのは「浮石寺側が希望する文化財交流展示などについては、長崎県や政府と協議すべき問題だ」という田中前住職の言葉です。

浮石寺と交流してもなんら得るものなどありません。田中前住職が「こっちに言わないで政府と交渉してくれ」というのも納得です。

なにせ(いい加減な主張を基にして)13年も返還されなかったのですから。

日本は「非韓三原則」を貫くのが良いのです。

非韓三原則
・韓国を助けない
・韓国には教えない
・韓国には関わらない

(吉田ハンチング@dcp)

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