朝鮮戦争の後方戦線は日本にあり、在日朝鮮人は武装闘争の前面に立っていた。

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1950年06月25日払暁、北朝鮮が38度線を突破して南朝鮮に侵攻。

朝鮮半島では物凄いドツキ合いが繰り広げられ、北鮮と南鮮の軍事境界線はスチームローラーのように南北を移動しました。

この朝鮮戦争は朝鮮半島だけで戦われたわけではありません。

すっかり忘れ去られて、現在日本人の多くは知りませんが、この1950年以降、日本では日本共産党およびそのシンパが多くの騒擾事件を起こしました。

これはもちろん朝鮮半島で行われていた戦争と連動していました。日本は合衆国率いる国連軍にとって後方の兵站基地であり、重要な発進拠点だったので、これを消耗させること、破壊することには大きな意味があったのです。

日本人は――朝鮮戦争の後方戦線が海を超えた日本にあったこと――を忘れています。

今では信じられない思いもしますが、共産主義革命を目指し、当時の日本共産党は、1951年02月「第4回全国協議会」、1951年10月「第5回全国協議会(いわゆる「5全協」)を経て武装闘争方針が打ち出しました。

日本政府・公安調査庁は

「共産党は,第5回全国協議会(昭和26年〈1951年〉)で採択した『51年綱領』と『われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない』とする「軍事方針」に基づいて武装闘争の戦術を採用した」

――という立場を現在も示しています

⇒参照・引用元:『日本国 法務省』公式サイト「共産党が破防法に基づく調査対象団体であるとする当庁見解」

実際に武装闘争による事件が日本各地で起こります。

特に1952年には、警察庁『戦後に於ける集団犯罪の概況』によれば集団犯罪は270件に達しました。

有名なのは、

・1952年05月01日:皇居前騒擾事件
(血のメーデー事件)
・1952年06月24~25日:吹田事件
・1952年07月07日:大洲事件

で、現在ではこれぐらいしか知られていませんが、当時の日本はあちこちで共産主義革命を信奉する人々が騒擾事件を頻繁に起こしていたのです。この共産党の最前線には在日朝鮮人が立っていました。

安部桂司先生の著作『日共の武装闘争と在日朝鮮人』から以下に引きます。

「日共」とは日本共産党の略です。

これら日共の武装闘争を支えたのが在日朝鮮人の組織、祖国防衛委員会(祖防委)であった。祖防委は、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)傘下の非公然組織であった。

その祖防委の傘下に祖国防衛隊(祖防隊)が組織された。

それは日共の軍事方針を支えるために組織された、と見られた。日共では軍事組織の一本化を強調して祖防隊を逐次中核自衛隊に編入していた。

⇒参照・引用元:『日共の武装闘争と在日朝鮮人』著:安部桂司,‎論創社,2019年08月10日 初版第一刷発行,p16

今では想像できないかもしれませんが、当時の日本は朝鮮半島の影響を受け、朝鮮半島の後方戦線として騒然とした状況だったのです。

(前略)
武装闘争でも在日朝鮮人が前面に

日本の総人口1パーセント以下の在日朝鮮人は、1994(昭和24)年に摘発された公務執行妨害の21%を占め、1953~54年頃の全密造酒の30%を製造していた。

覚醒剤の全販売量の60~70%も彼らが扱っていた。

こうした犯罪の中で、特に在日朝鮮人が摘発される比率の高かったのが、集団で行う示威行為の「騒擾そうじょう」であった。

いわゆる集団暴動である。

これなど1948年では83%に上った。この時代に騒ぐのは朝鮮人であった。

だた、この「集団暴動」は取り締まる側の用語で、在日朝鮮人にとっては権利擁護・獲得のために行われる当然の行為、場合によっては「愛国・愛族運動」であった。

日本の警察が防弾チョッキを装備するようになるのは1952年からであるが、それは暴力団やギャンブルに対してではなかった。

当時の新聞に「共産党の武力闘争に備える」という記事が写真入りで出ている。

日共の武装闘争に備えての防弾チョッキ導入であったのである。

その日共の武装闘争を支えたのが在日朝鮮人であった。
(後略)

⇒参照・引用元:『日共の武装闘争と在日朝鮮人』著:安部桂司,‎論創社,2019年08月10日 初版第一刷発行,pp47-49

今となっては、日本共産党および在日朝鮮人の皆さんは当時の騒擾事件を語りません(1世代25年だとして現在2026年ですから3世代分が過ぎたことになります/もはや当時の生の記憶を有する人はいません)。ただし、当時何があったのか、実際に関わった人の証言や政府治安機関による記録が残っています。

(吉田ハンチング@dcp)

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