韓国「戦時作戦統制権」問題。朝鮮戦争時に劇的な決定があった

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アメリカ合衆国は中国を封じ込めるためにリソースを集中しようとしており、在韓米軍もそれに使うつもりです。

しかし、韓国はこれまで「在韓米軍は北朝鮮に対してのみ使うものであって、対中国に使用することはまかりならん」という姿勢です。

中国からにらまれたらひどい目に遭わされるからです。在韓米軍の位置づけについての齟齬そごが軋轢を生んでいます。

俎上に上がっているのは「戦時作戦統制権(wartime operational control=OPCON)」です。

戦時作戦統制権というのは、有事になった際に「どちらが指揮系統上の上位になるか」です。

現在は在韓米軍が握っており、有事には韓国軍が米軍の指揮下に入って戦うことになります。

このように決まったのは、朝鮮戦争時です。正式に韓国軍の指揮権が米軍に委譲されたのは1950年07月04日です。

1950年07月14日
(いわゆる「大田協定」)
李承晩大統領が、韓国軍の作戦指揮権を国連軍司令部(司令官:米陸軍マッカーサー元帥)に正式に委譲。

1954年11月17日
米韓相互防衛条約とともに、米韓合同防衛体制の枠組みが固まり、戦時作戦統制権は引き続き米軍司令官(在韓米軍司令官が国連軍司令官兼任)によって保持されることが確定。

朝鮮戦争を韓国第1師団を率いて戦った白善燁将軍は、自身の回顧録において以下のように書いています。

合衆国軍が朝鮮半島に来援し、指揮統制をどうするかが決まった「当初の指揮系統」について述べた重要な箇所です。

(前略)
こうして韓国とアメリカ、韓国と国連のあいだで最高レベルの意思決定が下されたのだが、第一線で戦っていたわれわれには、これをいった変化は感じられなかった。

作戦指揮権を委譲したといっても、第八軍司令部による直接統制ではなく、韓国陸軍本部を経由する間接統制だったからである。

横浜から大邱テグに進出した第八軍司令部が発する作戦命令は、大田から大邱市に下がった韓国陸軍本部に伝えられ、その後、韓国軍の軍司令部や師団司令部に伝達された。

のちに、陸軍の前進指揮所がもうけられると、作戦命令の流れは、第八軍司令部-韓国陸軍本部-陸軍本部前進指揮所-各軍団・師団となった。

間接統制が廃止され、完全な直接統制になるのは一九五一(昭和二六)年三月以降であるが、これについては後述したい。
(後略)

⇒参照・引用元:『若き将軍の朝鮮戦争 白善燁回顧録』著:白善燁,『株式会社草思社』,2000年05月30日 第一刷,p205

ここに書かれている、

第八軍司令部 ⇒ 韓国陸軍本部 ⇒ 陸軍本部前進指揮所 ⇒ 各軍団・師団

という指揮系統を記憶しておいてください。この指揮系統が一気に吹き飛ばされる瞬間が来るのです。

中国の人民解放軍が参戦し、戦線が切り裂かれて国連軍が劣勢に追い込まれ、ようやく戦線の張り直しに一息ついたとき、その決定が訪れます。

白善燁将軍はその現場におり、以下のように書いています。

(前略)
カンザス・ラインからワイオミング・ラインへ

共産軍の五月攻勢を押しもどし、戦線の整理が一段落した五月末、バンフリート軍司令官は江陵の飛行場で丁一権チョンイルコン参謀総長と会見したが、このとき私も立ち会った。

バンフリート軍司令官は単刀直入に、こう通告した。

「韓国第三軍司令部は、これで廃止とします。

第三軍団に編合されている第三師団は韓国第一軍団に、第九師団はアメリカ第一〇軍団の指揮下に入れます。

また韓国第一軍団は、第八軍司令部の直接統制下に入れます。

したがいまして、陸軍本部の前線指揮所は必要なくなりました。

これからの韓国陸軍本部の任務は、人事・教育・補充・補給となります」

元来バンフリート将軍は、命令は誰にでもわかるように簡明な言葉で伝え、よけいなことをいっさい言わない人だったが、これほど重要な指示を立ち話で伝え、一国の参謀総長へなんらの外交的配慮も示さないことに私は驚いた。

たしかに敵の五月攻勢時、第三軍団が突破されて重装備を失ったことは事実だが、軍団解散と陸軍の権限の一部を奪うほどの厳しい処置をとるとは思いもよらず、丁一権将軍は言葉を失った。

このときに決められた韓米連合の形態は、大筋において今日まで継承されているわけである。

私はバンフリート将軍の言葉に冷や汗をかいた。

もしも第一軍団が失策を犯したり、軍司令官の意に沿わなかったら、この時点で解散の憂き目にあっていただろう。

そうなったら、韓国軍は休戦まで軍団司令部など高級司令部をもたぬままで過ごさなければならなかったかもしれない。

となれば、高級司令部の業務経験者がいなく成り、休戦後の軍の債券は円滑に進まなかったであろう。
(後略)

⇒参照・引用元:『若き将軍の朝鮮戦争 白善燁回顧録』著:白善燁,『株式会社草思社』,2000年05月30日 第一刷,pp336-337

第三軍団が失態を犯したとの判断の下に、第三軍団は解体され、

第八軍司令部 ⇒ 韓国陸軍本部 ⇒ 陸軍本部前進指揮所 ⇒ 各軍団・師団

という指揮系統から、陸軍本部前線指揮所なくなり、韓国陸軍本部の機能は「人事・教育・補充・補給」のみに制限されました。

白善燁将軍が「うちの第1軍団も危なかった」旨の述懐を残していますが、信賞必罰ではあるものの「このときに決められた韓米連合の形態は、大筋において今日まで継承されている」のです。

では、韓国軍の戦いぶりはどうだったのでしょうか。韓国軍に対して酷評する将軍が多かったけれども……として白善燁は以下のように書いています。

(前略)
これを知ってか知らずか、第八軍司令官であったウォーカー将軍やリッジウェイ将軍をはじめアメリカ軍人の中には、韓国軍を酷評する人も多かった。

ウォーカー将軍は「韓国軍に戦う気はあるのですか」と李承晩大統領に直言し、「なんと失敬なやつだ」と大統領が激怒して、政戦略上の連合関係にひびが入りかねない場面があったと聞いている。

リッジウェイ将軍も「一部の韓国軍は戦意に欠ける」とその回顧録に記しているように、かなり辛辣に韓国軍を批判していた。

バンフリート将軍はこれとは少々違っていた。

敵の四月攻勢、五月攻勢に際しての韓国軍の対応について厳しく批判し、第三軍団の失策には容赦なく、解体ばかりか作戦統制権まで取り上げたが、その一方で、極めて温かい目を韓国軍に向けたのである。

バンフリート将軍の見解は、韓国軍には充分な戦意はあるが、訓練不足のために過早な後退をし、壊乱するのであって、これを補正すれば戦争の主役に成りうるというもので、ギリシャ軍を再建し、共産ゲリラと戦った経験から導き出した結論であった。
(後略)

李承晩(イ・スンマン)大統領に、「あんたの国の軍隊はやる気あんのか?」と直に聞いたというウォーカー将軍も相当なものですが、それだけ韓国軍の戦いぶりが腹に据えかねたのでしょう。

白善燁将軍は、朝鮮半島には珍しい「武人」の英雄です。朝鮮戦争の始まりから終わりまで、国を守るために前線に立ち続けた方です。

白善燁将軍の逝去に心より哀悼の意を表します
2020年07月10日、朝鮮戦争時に第一師団を率いて戦われた「白善燁」将軍が逝去されました。ここに日本からも心より哀悼の意を表します。あなたこそは、亡国の危機に際して文字どおり粉骨砕身、己の身を挺して戦われた南朝鮮を代表する不世出の英雄です...

(吉田ハンチング@dcp)

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