一匹狼(maverick)と評されたジョン・マケイン(John Sidney McCain III)上院議員が亡くなりました。アメリカは政治家の良心ともいうべき人を失いました。
日本人にはあまり知られていませんが、マケイン議員は「フェニックス」(不死鳥)と呼ばれました。
「フェニックス・マケイン」は負けなかった!
マケイン家は軍人の家系で、ジョンの祖父は日本と戦ったジョン・S・マケイン・シニア(John Sidney McCain, Sr.)海軍大将、父親もまた海軍大将に進んだジョン・S・マケイン・ジュニア(John Sidney McCain, Jr.)です。自身も海軍を選んだジョン・マケインは、アナポリス卒業後、パイロットになります。
この頃から、彼はフェニックスぶりを発揮しました。
・スペイン上空で送電線に接触するも無傷で生還
・バージニア州上空で飛行機が墜落するも無事脱出
というエピソードもすごいですが、圧巻はベトナム戦争時、空母フォレスタルにA-4のパイロットとして赴任していたときの話です。
1967年07月29日、空母甲板上に駐機されていたF-4から誤ってロケット弾が発射され、マケイン機の燃料タンクを貫くという事故が起こります。甲板上で起こった爆発は132人を死亡させる大惨事となりました。
「ああ。マケインもとうとう死んじまったか……」と戦友も思った中、「おーい!」と呼ぶ声。ジョン・マケインは生きていたのです。爆発で散乱した金属片で足をケガしましたがそれでも命に別状はありませんでした。まさにフェニックス・マケインの面目躍如です。
1967年10月27日、ジョン・マケインは爆撃任務の最中にベトナムで自機を撃墜されましたが、脱出。北ベトナム政府軍の捕虜になってしまいます。脱出はできたものの両腕は骨折、ライフルのストックで肩は砕かれ、銃剣で左足や腹部と突かれましたが、それでも彼は生き延びます。捕虜生活の中で幾度も尋問されましたがなおも彼は屈しませんでした。
ジョン・マケインの父が有名な海軍提督(1968年にはアメリカ太平洋軍司令長官)であることを知った北ベトナム軍は、彼を利用しようとします。早期釈放のチャンスを与えたのです。つまり「北ベトナム軍は捕虜を人道的に扱ってる」ということを世界に報道してもらおうとしたのです。
しかし、ジョン・マケインはこれを拒否。合衆国軍の行動規範である「first in, first out」を守り「自分よりも先に捕虜になった者が先に釈放されるべきであり、その後なら釈放を受け入れる」と言い放ちました。
また彼の父親も捕虜となった息子が先に釈放されることを望みませんでした。個人の感情よりも組織の規範を優先したのです。
ベトナム戦争はとても正義の戦争とはいえませんでしたが、それでも騎士のように振る舞うことを躊躇しない男達がいることをマケイン家は世界に示したのです。
北ベトナムから受けた拷問・取り調べのため、髪は白く、歯は折られ・抜け、肩が上がなくなり、足も不自由になります。つらさの余り自殺しようとしますが、それも阻止されました。さらに、彼は自分の罪を認める文書にサインさせられます。それでもなお自分の意志ではないことを示すため、英文法を無視した文書にするような抵抗を忘れませんでした。
そうして5年半もの間、捕虜としての生活を余儀なくされましたが、1973年3月15日ようやく釈放されたのでした。フェニックス・マケインは祖国へ帰った後、政界へ転身。後に共和党の重鎮となるジョン・マケインの誕生です。
オバマ政権でスタッフであったラムズフェルドなどの「チキンホーク」(口だけはマッチョで威勢のいい弱虫野郎のこと)ではなく、本当の筋金入りの軍人であり、だからこそ軍事力行使へ躊躇し、その正当性に最後までこだわる筋の通った人でした。
トランプ政権に対して「独裁者的」だとして反対票を投じることも厭いませんでした。また、息子(ジェームズ・ヘンズリー・マケイン)を海兵隊に入れることに、つまりは国に奉仕する人間にすることに何のためらいも感じない人でした。自分がそうであったように。
あなたの高潔な魂を忘れません
どんなに世界が変わろうとも、人間には信じるべきものがあること、信じられるものがあることをあなたは示されました。
どうか安らかに眠ってください。あなたが示された気高い精神、アメリカという祖国を思う真摯な気持ち、薄汚い政治の世界でそれでも「騎士」であろうとしたあなたの生き様を決して忘れません。あなたのような人は二度と現れないでしょう。
ここに心から哀悼の意を表します。
(柏ケミカル@dcp)