韓国と議論しても噛み合わない、向こうの話は論理的におかしい――という経験をすることがあります。
「それは論理的におかしいだろう」という批判がなぜか通用しないのです。
「論理的におかしな話をなぜ主張できるのか?」――これについては古田博司先生が明解に指摘していらっしゃいます。
ずいぶん古い本になるのですが、古田先生の著作から以下に引用してみます。
(前略)
韓国人の「理論」は金城鉄壁の備えを誇っている。自分がただしい、我々がただしい、我が民族がただしいと、우리(われわれ)が同心円になって広がっていく。
これに対する一方の極は、君たちの国がまちがっている、君たちの民族がいけない、君たちは許せぬ、という남(他者)の世界になっている。
この「ウリ」と「ナム」が各々憑依するのが、各々の「理論」、つまり言いぶんということになる。
「理論」の核は、あくまでも自己の正当化である。
韓国人の「理論」が論理的でないのは、このためである。
あるいは、韓国人にとって「論理的」であるということは、その「理論」がどれだけ自分の思いに合っているかを説明することだ、とも言えそうである。
(後略)※強調文字、赤アンダーラインは引用者によります。
⇒参照・引用元:『悲しみに笑う韓国人』著:古田博司,筑摩書房,1999年02月24日第一刷発行,pp184-185
韓国の理論の核にあるのは「自分(우리)を正当化すること」であって、自分を正当化できるなら論理的でなくても構わない――のです。
古田先生の指摘は正鵠を射ています。日本人がしばしば韓国の皆さんから「論理的ではない理論」をぶつけられることになるのは、そのためです。
先生の指摘に基づけば、客観的な事実に基づく論理的な分析など韓国の皆さんにとっては二の次ということになります。
ひどい話ではありますが、韓国と相対するとき日本はこの点に注意しなければならないでしょう。理屈にならない話を大真面目にもって来るのですから。
(吉田ハンチング@dcp)