韓国との論争で絶対に負けてはならない。しかし、その苦労たるや……

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「日韓歴史研究会」というものが行われたことがあります。

2002~2010年に、第一期と第二期が行われました。事の発端は、2001年に小泉純一郎首相と金大中(キム・デジュン)大統領の首脳会談で国家プロジェクトとして合意されたことに始まります。

座長の下に古代・中世・近現代の3つの分科会に分かれ、日韓の歴史研究者が集い議論するというものでした。目的としては日韓相互の友好関係に役立てようというものだったのですが……。

第一期はまだしも、第二期になって様相は一変します。韓国の大統領は盧武鉉(ノ・ムヒョン)さんとなり、日本の歴教科書問題が燃え上がったからです。

盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権では。日本の朝鮮併合から21世紀の韓国における保守政治の流れを「親日派」と規定し、積極的に「歴史の見直し」を行いました。

盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は、自らの動きが日韓の歴史認識に反映されなければならないとし、研究会に「教科書小グループ」を設けさせました。

そのため、第二期は古代・近世・近現代・教科書小グループの4つで、日韓の歴史研究者が議論することになったのです。

読者の皆さまもここまで読んだだけで「うへぇ」と辟易するような気持ちになられたと思われますが、委員となった日本の歴史研究者の皆さんは「戦い」で疲労困憊を極められました。

「教科書小グループ」で代表を務めた古田博司先生の著作から、いかに韓国側と戦ったのかの部分を以下に引用します。

(前略)
それからこういうのもあった。

会議の際に豊臣秀吉の朝鮮出兵の話題が出た。最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが分かっている。

朝鮮の李朝はひどくて、日本のほうがずっといいから、占領地に城下町もできてしまった。

朝鮮農民は李朝でひどい目にあっているから、日本のほうに行けば良くしてくれるということで、どんどん日本の占領地に逃げ込んできた。

学校では教わらないが、これが事実である。

日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建てた。

(中略)

これについての発表を、ある若い先生がやった。とても良い発表だったのだが、彼らにとっては面白くない。なんとか文句をつけてやろうと思っている。

レジュメには「この戦争の成果」と書いてあった。

すると韓国側は「成果とはなんだ、人が沢山死んだんだぞ。我が国を侵略して、多くの人を殺害して、この戦争の成果とはなんだ」と文句をつけた。

そのとき私は議長であり、考え込んだのだが、妙案が浮かんで「成果いけませんか? じゃ戦果」と言った。

案の定彼らはものすごく怒った。

そこで、「でもね、あんたたち史料を見なさいよ。ほら。見てごらんなさい。日本側が勝っていて、城下町だってできちゃっているじゃない。こっちのほうが統治がいいから、朝鮮農民がどんどん逃げてくるんだよ。ほら、戦果でしょ」と言うと、また怒った。

私は「あんたたちはね、日本の左翼学者とばっかりつき合っているから、こういう話を聞いたことがないのよ。研究はここまで進んでいるのですよ。これはアンチテーゼ(反命題)だよ。あんたたち弁証法大好きでしょ。ジンテーゼ(総合命題)作りなさい」と怒鳴った。

韓国の左翼学者は、ヘーゲル・マルクスの弁証法が大好きである。彼らは黙った。

彼らとの論争では絶対に負けてはいけないのである。
(後略)

強調文字、赤アンダーラインは引用者によります。/以下同

⇒参照・引用元:『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』著・古田博司,ワック,2014年03月04日 初版発行,pp32-34

古田先生の煽りスキルも大したものですが、「彼らとの論争では絶対に負けてはいけない」とするのであれば、当然の成り行きだったのでしょう。

しかし、韓国側の怒りは相当だったようです。

古田先生ご自身は書いていらっしゃいませんが、当時同じく「教科書小グループ」に委員として参加していた木村幹先生の著書から引くと、以下のようになります。

(前略)
会議の雰囲気は回数を重ねるごとに険悪なものとなっていった。

とりわけ日本側「教科書小グループ」の代表だった古田先生の発言に対する韓国側委員の反発は強かった。

ついには、ニ〇〇九年一一月一七日、ソウルで行われた一三回の会合で、韓国側の委員たちがボイコットを表明する事態にまで発展した。

彼らは「前近代の朝鮮半島には染色の技術はなかった」などといった発言を繰り返し行う古田先生の謝罪なくしては、会議に応じることはできないと主張したのだ。

結局、この問題は、日本側があらかじめ用意し、韓国側の了承を取り付けた「遺憾の意」を示す文章を古田先生が読み上げることで、「とりあえず」解決したが、その後も韓国側には日本側に対する強い不信感が残り続けた。

不満を持ったのは古田先生も同様であり、彼はこの事件後、会議には参加しなくなった。

このような状況の中、日本側の小グループは取りまとめ役を失い、私はやむを得ず、その代理的な職務を果たすこととなった。

そのため、時に東京に赴き外務省で担当者の意向を聞き、またソウルで韓国側の委員と善後策を協議するなど、負担はきわめて重いものとなっていった。
(後略)

⇒参照・引用元:『韓国愛憎』著:木村幹,中公新書,2022年01月25日発行,pp107-108

最後の方は「古田先生のせいで負担が増えた」という木村先生の愚痴のようになっていますが、それだけ紛糾して収拾が大変だったわけです。

韓国側に事実を提示することは、韓国側学者を追い込みもするようで、古田先生は以下のようにも書いていらっしゃいます。

(前略)
第二期日韓歴史共同研究委員会では、日本側が韓国の歴史教科書の元ネタが日本であることを実証した。

その時、韓国側が「こんなこと、韓国の学会に知れたら大事になるぞ」と叫んだ。

面子ゆえに、彼らはいつも戦わずして屈折するのである。
(後略)

⇒参照・引用元:『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』著・古田博司,ワック,2014年03月04日 初版発行,p115

「韓国との論争に負けない」というのは非常な労力を要することなのです。

(吉田ハンチング@dcp)

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