「征韓論」といえば、明治維新三傑の一人、西郷隆盛さんが下野するきっかけとなりました。いわゆる1873年(明治6年)の政変です。
西郷さんをかばうためなのか、「西郷隆盛の征韓論はあくまでも『遣韓論』であった」といわれたりします。
遣韓論というのは、朝鮮に開国させるために遣いを送る(西郷さんは自身が行くと主張していました)というもの。西郷さんの主張はあくまでも「遣韓」が主眼であって、征韓ではなかったというのです。
日本による朝鮮併合を「悪いこと」とみなす現代の視点からすれば、仮に「征韓」を唱えたとすれば、西郷さんも「悪い人」とみなされがちです。
「西郷さんの征韓論はあくまでも遣韓論であった」とすれば、西郷さんを「悪い人」とみなさずに済みます。しかし、史料研究が進む中で現在では「西郷さんの征韓論は遣韓論」は説得力を失っています。
西郷隆盛という人は「征韓」について本気だったのです。現代の目で「いいか悪いか」はここでは問いません。
西郷隆盛は征韓の作戦プランも練っていた
傍証は史料からたくさん見つかっています。
1872年(明治5年)、西郷さんは板垣退助さんと朝鮮調査を計画し、北村重頼さんと別府晋介さんを軍事視察の名目で派遣。朝鮮に派遣される外務大丞の花房義質さんに同行させています。さらに西郷さんは、副島種臣さん、板垣さんと図って、池上四郎さん、武内正幹さんらを派遣し、満州方面も詳しく視察させています。
このような調査の下に、西郷さんと板垣さんの間で、征韓の作戦計画が考えられました。
長南政義先生の解説から一部を以下に引用します。
(前略)
『明治十年西南の戦役 土佐挙兵計画の真相』という史料に、作戦会議において西郷と板垣との間でかわされたやりとりが記載されている。それによれば、西郷が「兵隊を北韓国に上陸させ、平壌より漢城を砲撃させれば、恰も袋の口をくくって物を探るように、朝鮮宮廷が北へ逃げる逃走路がなくなる」と述べたところ、板垣が次のように反論した。
「韓国を対手とする戦争において、まず国王を捕虜にすることを主眼とすべきことは、私もあなたの説と同じだ。
しかし、その戦略として、北方から南下して敵の逃走路を遮断する案は実行困難だ。
それよりも部隊を釜山に上陸させるべきだ。そうすれば、韓国人は全力を釜山に投入して日本軍を撃破しようとするだろうから、我が軍は全軍の三分の二を海上輸送で江華湾方面に送って漢城に肉薄させ、さらに釜山軍をも海路平壌に輸送して敵の退路を遮断すれば、成功疑いない」
この他にも、西郷は戊辰戦争で大きな軍功を挙げた伊地知正治に征韓について研究させた形跡があり、征韓は鎮台兵で構成される海陸約四万の兵力を使用すれば十分可能とする書簡を、明治六年十二月に伊地知から受け取っている(『西郷隆盛全集』第五巻、文書一四六)。
(後略)⇒参照・引用元:『歴史群像 2018年10月号』「西郷隆盛と『征韓論』」文:長南政義,pp102-103
板垣退助さんといえば「板垣死すとも自由は死せず」という言葉で有名な政治家として知られますが、実は非常に有能な軍人でした。
北方に軍を派遣して、朝鮮半島をあたかもチューブを絞るように南下して朝鮮宮廷を捕らえてしまおう――という西郷さんの案に対して述べたプランは、いかに板垣さんが軍事的に才があったかを示しています。
釜山に軍を上陸させ、朝鮮軍の主力を誘引。拘束して、後方の漢城(ソウル)近郊に海路兵力を上陸させ一気にカタをつけようというのです。
これは後世、朝鮮戦争時にマッカーサー将軍が行った、仁川上陸作戦そのものです。
当時、連合軍は釜山橋頭堡に押し込められ、北朝鮮軍に包囲されていました。しかし、北朝鮮軍のケツはがら空きで、海路連合軍は仁川に上陸。北朝鮮軍は兵站を遮断されることとなり総崩れとなりました。
後方からの一撃(バックハンドブロウ)で戦局にカタをつけたのです。
板垣さんの作戦構想は的確だったといえます。
ともあれ、西郷さんが情報収集、それに基づく作戦立案に勤しんでいた形跡は明白ですから、とても「西郷さんの征韓論は遣韓論であった」とは考えられないのです。
――というわけで、西郷さんの征韓論は本気でした。交渉で訪朝して殺されるつもりでした。自らが死ぬことで開戦のきっかけを作る気だったのです。この西郷さんの覚悟は、当時、自身の体調が非常に悪かったことが影響していたと考えられています。
(吉田ハンチング@dcp)