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「朝鮮から潜水艦で日本に来たよ」先生、それは密航です

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土曜日ですので、読み物的な記事を一つ。

「僕は潜水艦に乗ってきたんだよ」「すごいですなあ」

尹学順先生をご存じでしょうか。『オンドル夜話』の著者でいらっしゃいます。

『オンドル夜話』は、朝鮮における「両班」というものがどういう存在であるのかを知るための必読の本で、尹学順先生も両班出身。

しかも日本人なら驚愕するほどの血筋で、世祖から数え36代目、坡平尹氏第36世宗孫です。

日本人なら36代前まで明確にさかのぼれる家系など、千代田区にお住まいのやんごとなき方以外には、想像もできません。

しかし、朝鮮の族譜では、現在ではすっかり庶民の人でも世祖からどのように経てきたのかを見ることができるのです。尹学順先生は、自身の著書の中で自分に至る族譜を以下のように開陳していらっしゃいます。


↑18世からのもので、この長さ。

⇒参照・引用元:『オンドル夜話』著:尹学順,中公新書,1983年(昭和58年)02月25日 初版,p151

尹学順先生は2003年に亡くなりましたが、大らかで、独特のユーモアをお持ちの方だったようです。

関川夏央先生が書いていらっしゃいますが、尹先生から「僕は潜水艦に乗ってきたんだよ」と言われたそうです。関川先生は何の気なく「すごいですなあ」と応じたそうですが、これが実は「密航」の隠語だったのです。

関川先生は自著の中で以下のように書いていらっしゃいます。

(前略)
あるとき尹氏は、自分は潜水艦に乗って日本に来たのだ、といった。

それはすごいですなあ、とわたしは素直に感心した。

北朝鮮が南下してきた五〇年夏、尹氏は嶺南大学予科一年生だった。南に向かう避難民の流れにさからって、醴泉イエチョン郡の実家に帰った。

両班知識青年の例にたがわず左傾化していた尹氏は、村の青年たちを引き連れ、義勇軍に志願した。このとき、朝鮮人民軍に受理されなかったのは一生の幸運であった。

しかし志願前夜、「反動」の農家の牛を徴発して全員で食べてしまった件で、今度は国軍と「右翼」に追われる身となった。

麻の畑や釜山の裏町で起き伏しして、五十三年四月、日本に密航した。

潜水艦とは密航船の隠語であった。
(後略)

⇒参照・引用元:『世界とは嫌なものである 東アジア現代史の旅』著:関川夏央,集英社文庫,2006年10月25日 第1刷,pp226-227

なんという劇的な人生でしょうか。

当時の両班の若者は総じて「共産主義にかぶれていた」そうで、尹学順先生もその例に漏れなかった、と自分で書いていらっしゃいます。

そのため、第1次朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮軍が南進した際には、尹先生は有志を募って北朝鮮軍に参加しようとされました。大変幸いだったことに、北朝鮮軍がこれを拒否。上掲で関川先生が書いているとおり、もしこのとき参加が許されていたら、恐らく尹先生は天寿を全うできなかったでしょう。

しかし、この共産主義かぶれが戦後(朝鮮戦争後)、李承晩(イ・スンマン)政権下の尹先生を追い詰めることになりました。

村の牛を勝手にみんなで食べて、北朝鮮軍に参加しようとしたマルクスボーイ(尹先生は自分でこう仰っています)は、反共ガリガリの李承晩(イ・スンマン)政権から目の敵にされて当然です。

とうとう尹先生は、1953年、日本に密航することになったのです。

密航の顛末を詳細に記した回想録『わが密航記』

1953年04月28日に日本に向かったのですが、密航船が日本の巡視艇に発見されて、一転拘置されることに(唐津救難署が33人を拘置)。

しかし、留置所から見事に脱走。東に向かい各地を転々とし、1955年には明治大学第二部法学部に入学します。その後、法政大学に編入し1958年には法政大学を卒業。

密航者のママで日本の生活を送りますが、1976年に東京入国管理局に自首します。収監されましたが、保釈金を支払って釈放され……罰金3万円を支払い、特別在留資格が許可されました。

面白いことに、自分がいかに密航したのかについては、尹先生が自分で『わが密航記』に詳細に書いていらっしゃいます。これは、「当時の朝鮮から日本への密航がどのように行われていたのか」を知ることができる極めて貴重な回想録です。

高柳俊男先生は、この回想録の価値について「渡日初期の尹学準—密航・法政大学・帰国事業」の中で以下のように書いていらっしゃいます。

(前略)
現在の在日朝鮮人(総称)は、戦前の植民地支配の時代に、いわば国内移動の形で日本内地に渡ってきた人のうち、戦後もさまざまな事情で日本に留まった人とその子孫を中心としている。

とはいえ、戦後初期に済州島四・三事件(1948年)や朝鮮戦争をはじめとする戦火や思想対立・左翼弾圧を避けて日本に密航した者や、1945年の解放後にいったん朝鮮半島に帰国した後の再渡日者(同じく密航となる)も一定の割合を占めている。

とくに戦後の民族運動や学術・言論活動などで主導的役割を担った人のなかに、そうした形で渡日した人が意外と少なくない。

避難民や政治亡命者的性格がかなりあるとはいえ、密航はやはり違法行為であり、うしろめたさのみならず、当人の日本における法的地位にも直ちに影響するため、その事実を自ら公表したり、とりわけその具体像を詳細に語ることは稀である。

また本人以外でも、日本政府の在日朝鮮人政策の非を批判する際の常套句、「我々は好きこのんで日本にやって来たのではない」に抵触すると思われるせいか、密航者の存在やその果たした積極的役割に目を向けるような論が在日の世界で唱えられることはまずない。

そうしたなかで尹学準は、密航に伴う法的な問題に区切りをつけた段階で、「わが密航記」(注2)という記録を書いている。密航の具体的な様子をはじめ、密航後のトラブルや不安な心理状態などが事細かに記されており、きわめて異例で貴重である。
(後略)

⇒参照・引用元:「渡日初期の尹学準—密航・法政大学・帰国事業」著:高柳俊男

現在からすると、なんで密航者が正体を隠したままで大学に入学できたのかなどが不思議ですが、『わが密航記』を読むと、密航者を送り出す組織、また受け入れのためのコネクションや組織がちゃんとあったことが分かります。

なにせ、朝鮮半島をたつ前には、密航船の船主などから、

・上陸の際に浅瀬に飛び込むので、各自着替えをビニール袋に入れて用意する
・岩や山をよじ登ることもあるから運動靴が必須
・現地で道を聞く時はなるべく女学生に尋ねる

などのこまごました注意事項を説明された――とのこと。どう読んでも初めてではなく、何度も経験した上でのアドバイスです。

「3年か5年で帰るつもり」が思わぬ長逗留に

先にご紹介したとおり、萩原遼先生も「先生の友人が朝鮮半島から日本に密航し、日本の国籍を5,000円で買った」と書かれています。密航華やかなりし頃には、そのようなことは(もちろん闇で)普通に行われていたのでしょう。

それはともかく、尹学順先生は自首して特別在留資格を得たので、違法滞在者ではなくなりました。尹先生は密航してから29年後に、初めて朝鮮半島の故郷の土を踏むことになったのです。

親しくお付き合いのあった関川夏央先生は、尹先生の逝去に当たり、以下のように書いていらっしゃいます。

(前略)
尹学順氏は二〇〇三年一月十二日に亡くなった。

六十九歳とあるが、「族譜」にしるされた正しい誕生日によれば七十歳十カ月であった。

「三年か五年で帰るつもり」が滞日生活がかなり気に入って、結局五十年に三カ月足りぬ歳月にまでおよんだ。

(吉田ハンチング@dcp)

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