御大の「エアパワーとしての空母」より長いですが引用します。
<<引用ここから>>
(前略)
大ざっぱにくくるならば歴史は大陸国と海洋国の闘争で造り上げられている。考えてみればこれは当然、いや、必然といってもいい。
産業革命以前、大陸国は流通をちまちまと馬車などで行わなければならなかったのに対し、海洋国は一気に船で運べた。手間がかからないのはもちろん後者であり、儲けが大きいのももちろん後者。おいしい部分を誰かが独り占めしてしまえば妬みが生じる。実際に景気も悪くなってくる。だから戦争になる。
別に飛躍した考えではない。古来戦争は領土や賠償金や奴隷を求めるために行われてきた。領土には市場も含まれた。つまり戦争は経済発展の一手段であった。二〇世紀こそはイデオロギーの時代だったといわれているが賛成できない。
実際はアメリカとソヴィエトという二つの超大国に代表される二つの経済システムのぶつかり合いにすぎなかった。そして非合理的なソヴィエト型の経済は崩壊した。ただそれだけのことであった(同じような意味で、民族的、宗教的な対立も経済の問題といえる)。大規模な戦争が起こらなかったのは大陸間弾道弾に代表される核兵器の破壊力があまりにも大きすぎ、戦争で儲けがでなくなったからにすぎない。それが証拠に、全面核戦争の危機が消え去った途端、世界のあちこちで小さくいじましい戦争がばたばたと発生した。
再び歴史に目を向ける。
大陸国と海洋国の戦争における優位は常に海洋国側にあった。これも必然に近い。大陸国は自国の領土を守るために巨大な陸軍を整備したうえ、海洋国へ侵攻できるだけの海軍も保有しなければならない。本来はそれほど必要があるわけでもないのに、ただ海洋国と対立しているという理由だけで海軍へ大枚をはたかなければならない。大陸国にとっての勝利は海洋国への渡洋侵攻、占領しかない。そして、それはいつも難しい。
一方の海洋国は海軍にだけ気を使っておけばいい。陸軍は海兵隊的な、敵国領土をつまみ食いする程度の規模であればよい。そうしておけば、海軍が壊滅しない限り、大陸国との戦争に敗れることは絶対にない。
大陸国が地続きの周辺諸国に強要して経済封鎖を試みようとしても、いつまでも続くものではない。傲慢な隣国の支配を嫌う国は必ず存在するし、その国へ船を用いて海兵隊(あるいはそういう性格を有した陸軍)を送り込み、支援してやることも可能になる。
海という自由度の高い交通路を利用した合従連衡を成立させうる。いかに豊富な資源を有していても、巨大な軍隊を二つ維持し続けねばならない大陸国はいつか根を上げる。要するに海洋国は海と本土を守り抜くことさえできれば――シーパワーの維持さえできれば、勝つことができる。物資の大量輸送という面において経済的な優位に立てるから、戦争で大きな被害を受けても、経済の再建も容易という強みがある。
事実、海洋国の敗北は、戦略的目的が不明確な大陸への介入をおこなった場合にしか発生していない。(中略)
戦略的失策の影響についてはともかく、海洋国家とはそういう立場にある。
人間に欲望があり、その欲望をどのように活用すべきか間違えない限り、大陸国は海洋国の敵ではない。海洋国が生き残るために頼らざるをえない海洋通商とその護衛に必要な海軍力、そしてそれらのすべてを活用しようという意思(国家戦略といってもいい)がかけあわされて生まれる力、シーパワーはそれほどの利益をもたらす。(後略)
<<引用ここまで>>
⇒引用元:佐藤大輔『真珠湾の暁』徳間文庫,2002年11月15日,pp87-90
(柏ケミカル@dcp)