とんだ「漢江の奇跡」韓国は何をしていたか?「国家ぐるみのダンピング」

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韓国の高度経済成長期は「漢江の奇跡」といわれます。

そもそもは朴正煕(パク・チョンヒ)大統領による5カ年計画に端を発するものとされますが、池東旭先生によれば「その前に計画されていたものの表紙を付け替えただけだけ」。しかし、果断に実行に移したのは朴正煕(パク・チョンヒ)大統領で、これが現代の韓国が誇る「輸出強国」につながったのは確かです。

輸出によって国の経済を成立させるというビジョンは成功を収めたわけですが、しかしその裏で何が行われていたかというと……です。

貿易でまるでもうかっていない!

まず、韓国の国際収支統計から切り出した以下のデータをご覧ください。『韓国銀行』が1980年01月からのデータしか公開していないので、そこからの月次データです。


はマイナスの意味です。

⇒データ出典:『韓国銀行』公式サイト「ECOS」

ご注目いただきたいのは、黄色でフォーカスした貿易収支のセルです。ご覧のとおり、マイナスばかりですね。

つまり、韓国は輸出で食べていくぞ!と1960年代から5カ年計画を重ねて輸出額を伸ばしてきたのですが、その貿易では全くもうかっていない状況がずっと続いていたのです。

黄色でフォーカスした貿易収支の、スグ左の列にもご注目ください。「経常収支」です。上掲のとおり、やはり▲でずーっと赤字です。

1980年01月からのデータになっていますが、この貿易収支の赤字がどこまで続くかというと、驚くなかれ1984年11月まで59カ月連続の赤字です。

1984年12月にやっと「1億3,420万ドル」のわずかな黒字になり、翌1985年01月から1985年08月まで、9カ月連続の赤字となります。

どこが輸出で食べていくのかと思われるでしょう。実は朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の開発独裁に始まる「輸出」の裏では何が行われていたのかを知らないと、なぜこんなことになるのかが理解できません。

原因は輸出の構造にあります。

韓国の輸出はダンピングだった!

筆者が言っても信用されないかもしれませんので、萩原遼先生の当時の著作から以下に引きます。

(前略)
常識的に考えて、借金を返すには働くこと、つまり貿易を拡大して利益を上げるしかない。

韓国の場合、貿易額は70年代初めの8億ドルから80年の170億ドルへとこの10年余に飛躍的に伸びてはいる。

ところが、韓国の貿易は、原料はもとより、機械、部品、技術など、大半を輸入して、それを低賃金の労働者に組み立てさせ、ダンピングで輸出するのである。

韓国の総輸出商品の3分の2が赤字輸出だという指摘もある。

輸出が増えれば増えるほど赤字もまた増えるという構造になっている。

かといって、やめればすべてが止まってしまい、どんな大混乱を招くかもしれない。

射殺された朴正煕の“悪夢”は全斗煥一派の念頭をいまなおさらないのである。とにかく走り続けるしかない。

ところが、その頼みの綱の重化学工業が軒並み停滞ないし後退におちいっているのである。
(後略)

⇒参照・引用元:『民主主義よ君のもとに 韓国全斗煥体制下の民衆』著:萩原遼,新日本出版社,1986年10月20日 初版,pp101-102
強調文字、赤アンダーラインは引用者による。/読みやすいように漢数字は英数字に直しました(以下同)

萩原先生のご指摘どおり、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領による輸出拡大路線は、大統領が暗殺された後も引き継がれ、確かに輸出を増やして外貨の入りを拡大しました。

しかしながら、それで「もうかったのか」というと全くダメだったのです。

かつての韓国の輸出は「ダンピング輸出」で赤字を増やすものだった――という事実を信じられない人もいるかもしれません。

当時の『東亜日報』に以下のように、その事実を明らかにした記事が出ています(1981年11月24日付け記事)。

カラーテレビ、セメント、乗用車など韓国の主な輸出製品十七品目のうち、十四品目までが、製造原価の42~69パーセントという安値で輸出されている。

その反面、国内の消費者物価は輸出価格の2~3倍。

国民の犠牲の上でダンピングを維持していることが歴然としている。

例えば、14インチのカラーテレビの場合、製造原価253ドルに対し、輸出価格180~185ドル。原価の71~73%のダンピングである。

それに対し、国内価格は437ドル

小型の乗用車の場合も、原価4,215ドル、輸出価格2,800ドル、国内価格5,270ドルである。

冷蔵庫(180リットル)は210ドルの原価を165ドル~180ドルで輸出し、国内では378ドルで売っている。
(後略)

ダンピング価格で輸出して、自国民には高い値段で売っていたのです。

なぜこんな無茶苦茶を行っていたかというと、同紙は「技術と生産性が低く、国産製品の品質が悪く、低い価格でなくては海外市場で競争できないからだと指摘されている」と総括しています。

原価割れの輸出ですから、当然企業は輸出すればするほど赤字がたまるはずです。

では、なぜ可能だったのでしょうか?

政府の支援金がダンピングの土壌だった!

答えは簡単で「政府が補填していたから」です。

再度、萩原先生の著作から以下に引きます。

(前略)
国際競争力のない商品を売りこみ、外貨を稼ぐために、韓国政府は、輸出支援金というテコ入れ資金を投じてきた。朴正煕(パク・チョンヒ)政権時代は、1ドルの品を輸出するのに420ウォンの資金を貸しつけた。

77年当時のレートでは1ドル=485ウォンである。

1ドル輸出するのに、ほぼそれと同額の資金の手当をうけていたのである。

朴政権が「輸出100億ドル達成」を呼号して、国をあげてとりくんだ77年には、輸出支援金の総額は4兆6,112億ウォンにのぼったと趙容範チョヨンボム高麗コリョ大学教授は指摘していた(韓国誌『月刊中央』78年8月号)。

100億ドルは当時のウォン価で4兆8,500億ウォン

つまり100億ドル輸出するのに、それとほぼ同額のウォン貨を国民の血税からつぎこんでいたのである。

この輸出支援金は、貸しつけといっても、事実上給付のようなもの。

したがって輸出に手を出せばかならず成金になるといわれるほど、ボロい儲け口であったのである。

朴時代に代わる全斗煥政権も、基本的にこうした貿易の仕組みを変えていない。
(後略)

⇒参照・引用元:『民主主義よ君のもとに 韓国全斗煥体制下の民衆』著:萩原遼,新日本出版社,1986年10月20日 初版,pp104-105

韓国の「漢江の奇跡」と呼ばれる輸出攻勢の背後では、達成した輸出総額とほぼ同額を投入する、いわば補助金があって、これを背景にダンピング輸出を行っていたのです。

「ちょっと待ってくれ」と思われるでしょう。この補助金はウォンですから自国で刷ればいいのですが、貿易でもうからず、経常収支が赤字ばっかりとなると外貨が出ずっぱりで――とうやって韓国は成立していたんだ、という疑問が湧くはずです。

これも答えは簡単。外国からの借金です。

「漢江の奇跡」は借金ドライブだった!

1965年の日韓請求権協定に始まる韓国の「外国からの借金で国を興す」作業こそが「漢江の奇跡」の本質です。

日韓請求権協定が締結されたのと朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の5カ年計画が同時期なのは偶然ではありません。韓国にはまとまった資本金がなく、日本などからお金を入れてもらわないと、とてもではないですが産業を興すなんてことはできなかったのです。

上掲のとおり、支援金を出して輸出を膨らませ外貨の入りを上げるためには外国からの借款が欠かませんでした。例えば、国際収支統計の金融収支、その他投資の負債の部を見ると以下のようなデータがあります。


↑黄色でフォーカスしたのが「その他投資」の負債の部。

1980年:71億6,260万ドル
1981年:52億3,210万ドル
1982年:51億8,450万ドル
1983年:15億1,680万ドル
1984年:24億4,360万ドル

その他投資は融資を計上する項目なので、負債が増えているということは外国から借金をしてお金を入れてもらったということです。当時巨額を借り倒していたことが分かります。

輸出が増加してもちっとももうからず、それをファイナンスするために外国からお金を借りて国の経済を回していたというのが実態です。

やがて民間企業も外国から巨額の借金を重ねるようになり……これが行き詰まったのが1997年のアジア通貨危機です。借金ドライブで調子に乗っていたところに、外国の急激な資金を引き上げに直面。借り換え(ロールオーバー)にも応じてもらえずにバンザイしたのです。

つまり総じていえば、「漢江の奇跡」とは外国からの借金(その大本を出したのは日本)で回していた、元々は「輸出ダンピングを動力源」としたものなのです。そして借金ができなくなったときに奇跡は終わりました。

とんだ奇跡だ――と感じるのは果たして筆者だけでしょうか。「韓国に学ぶべき」などという言説は正しかったのでしょうか。

もちろん借金をすること自体は悪いことではありません。韓国のように何もなかった国(日本が朝鮮半島から手を引いたときに棚ぼたで入手できた資産も朝鮮戦争で灰燼に帰した)をなんとかするためには、日本に難癖をつけてでも資金を持ってくるしかなかったでしょう。

朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は皇民教育を受けた軍人でしたし、日本にも「かつての同胞が困っているのだから」と救済に動いてくれる親切な人がまだいました。全斗煥(チョン・ドファン)大統領の時代でも、まだ自民党の内部には「まあまあ」と韓国を助けてやろうという人がいたのです。

さて次に韓国が困ったとき、日本は助けるでしょうか。

(吉田ハンチング@dcp)

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