韓国は日本によって近代の基盤が造られた国です。
李氏朝鮮という何もなかった国に近代を植えたのは日本で、それは併合時代に起こった革命的な変化でした。しかし、第二次世界大戦が終わって、日本が手を引いた後も日本の援助は続きました。
1965年日韓請求権協定による有償無償資金が有名ですが、お金だけではありません。技術もそうです。『ポスコ』の前身『浦項総合製鉄株式会社』、京釜高速道路などが、日本の技術協力なくしてはできなかったことは記録に残るところです。
韓国の皆さんはすっかりなかったことにしていますが、こういうのを恩知らずというのです。
実は、ソウルに敷設された地下鉄も日本の技術支援を受けて造られたものです。これはあの白善燁将軍が担当し、自著に書いていらっしゃいます。
白善燁将軍は、朝鮮戦争後、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の下で文官に転じ、「よど号」事件の折には交通部長官(運輸大臣に相当)でした。
該当部分を以下に引用してみます。
(前略)
四月三日、「よど号」が北に向かって飛び立ったのち、現地に入っていた橋本登美三郎運輸大臣一行が離韓した。別れぎわに橋本大臣は、こう挨拶された。
「無血解決にご協力、本当に感謝いたします。お返しと言ってはなんですが、なにかお手伝いできることがあれば申し付けてください」
とっさのことだったが、そのころつねに私の念頭にあったことが口から飛び出した。
「せっかくのお言葉ですから、勝手なお願いをさせてください。ソウルの交通混雑を解消するため、地下鉄の建設を考えています。
ぜひ地下鉄をつくる手助けをしてください。われわれは経験不足です。すばらしい日本の技術を見せてください」
私は厚かましくお願いした。
(中略)
交通部関連では、橋本運輸大臣は約束を守って、鉄建公団の角本良平氏を団長とする調査団をソウルに派遣してくれた。
角本調査団はさまざまな角度から地下鉄の路線を検討し、貴重な助言をしてくれた。
在来の地上線との相互乗り入れ、乗り換えの容易さなどは、経験を重ねてきた者でしかわからないことである。
私は梁鐸植ソウル市長とともに訪日し、地下鉄建設現場を何カ所か見学させてもらった。東京の工事は想像をはるかに超える大規模かつ複雑なものだった。
ヘドロを凍結させたり薬品で固めてから掘削しているとは驚いた。
ソウルは地盤が固いから、こんな厄介なことをしなくてもよく、経費は東京の半分以下で済むとわかった。めどがつき、私は朴正煕大統領に報告した。
「それはよいことですが、地下鉄は金がかかりますよ。大丈夫ですか?」と、朴正煕大統領は心配した。
「東京よりはるかに安くできますし、今のうちにやらないと、交通問題が深刻になります」と言うと、朴大統領は全面的に任せてくれた。
ソウルの地下鉄一号線は、国鉄の中央線、京元線、京春線の始発駅である清涼里から、東大門-鍾路を通ってソウル駅までの路線だが、実際には地上に出て漢江を渡り、鷺梁津で国鉄と相互乗り入れをしている。
工事は、トンネルを掘るのではなく、道路を地面から掘り下げ、あとでふたをする箱型工法で、経費はごく低廉ですんだ。
これは交通量が少なかったからできたもので、こんにちの交通事情では、とても鍾路の大通りを掘り返すことは不可能だろう。
(後略)⇒参照・引用元:『若き将軍の朝鮮戦争 白善燁回顧録』著:白善燁,草思社,2000年05月30日発行,pp430-431
朝鮮戦争の英雄、白閣下がソウルの地下鉄敷設に関わっていたとは知らない方もいらっしゃるでしょう。上掲のとおり、ソウルの地下鉄は「よど号」事件を契機にして、日本からの技術支援、助言によってできたものなのです。
このソウル地下鉄1号線は、1974年(昭和49年)に完成。08月15日、光復節に開通式が行われる予定でした。ところが、奇しくもこの日に大統領夫人である陸英修さんが、在日韓国人・文世光に狙撃されて死亡。
朴正煕(パク・チョンヒ)大統領夫妻は、南山の国立劇場で行われる光復節記念式典に出席した後に、1号線の開通式に回る予定でした。しかし、この狙撃事件によって開通式は中止。当時は、日本人が狙撃したという誤報が流れたため、日韓は極度の緊張状態となりました。
白閣下によれば、開通式には多数の日本人関係者も参加していたため、不足の事態に備えて避難することになった――とのこと。
ともあれ、ソウルの地下鉄が日本の支援があってできたのは確かです。上掲のとおり、当事者だった白善燁閣下がそう書いていらっしゃるので。
(吉田ハンチング@dcp)