朝鮮半島が日本による併合から独立できたのは棚ぼたです。日本が戦争に敗れ、朝鮮半島から手を引いたので独立国になることができました。
南朝鮮、韓国では「3.1運動が独立に大きな役割を果たした」と教科書で教えますが、大嘘です。
3.1運動が起こったのは1919年。同年04月には「大韓民国臨時政府」なるものが上海で設立されます。現在の韓国政府は「この臨時政府こそ現在の韓国政府につながるもの」と主張していますが、果たしてそんなことがいえるでしょうか?
「臨時政府」と聞くと、戦争などで国内にあった政府機関がまとまって海外に移転し、できたもののように思いますが、そうではありません。
旧大韓帝国とはなんの関係もなく、統治する土地はもちろん国民もいません。いわゆる「臨時政府」にあるはずの国内組織との連携もなかったのです。有志が集まり「臨時政府です」と宣言しただけで、アメリカ合衆国の国務省などは「クラブ」と呼んていたほどです。
新聞発行を行って口に糊をしていた時期もありましたが、主要な人たちはひっそりと帰国。支持者からの送金も絶えて、自分たちが「政府庁舎」と呼んでいる事務所の家賃も払えなくなる始末。
生活苦で首班の金九さんは、裕福な同胞を訪ね回ってご飯を食べさせてもらうという状況でした。
1932年に上海虹口公園で爆弾投擲事件が起こります。金九さんは「私が指示した」と声明を出します(新聞に投稿して名を売った)。本当なのかどうか分かりませんが、これで時の中国政府が「こいつら使えるかも」となったのが幸い(?)でした。
中国『国民党』から、
・政府経常費
・僑民生活補助費
・機密活動費
・光復軍経常費
・被服費
・糧秣
などの名目でお金が支給されるようになりました。
しかし、これが仇となります。そもそもこの「クラブ」には朝鮮の皆さんからも寄付が集まりませんでしたので、結局「大韓民国臨時政府」は中国『国民党』の丸抱え組織に転落したのです。
韓国ではさも立派な存在だったかのように誇りますが、内情は極めて惨めなものでした。韓国の教科書がいかにウソを並べようとも、臨時政府の実態についての証言が残っているのです。
張俊河さんという人です。日本軍属だったのですが、1944年夏に軍を脱走(1915年生まれなので29歳のとき)。重慶にたどりつき、「臨時政府」の実態に接して驚愕し、手記を残しました。
筆者が書いても信用されないかもしれませんので、松本厚治先生の著作から以下に引いてみます。
張俊河の手記は、臨時政府の実態をリアルに描出している。
「私たちのように血気盛んだった時代が、この老人たちの生涯にもあったはずだが、祖国を喪い海外に亡命した身とはいえ、なぜこれほごまでに老け込んでしまったのだろうか」
「なぜこのようにして中国各地を流浪したあげく重慶の片隅にまで追い詰められ、いつ終わるとも知れぬ亡命の日々を、かくも老いと衰えのうちに過ごしてしまったのか」
「金九先生はじめ多くの老閣僚たちが目の前で声を殺して泣いている……。一切の財政援助を中国政府から受けていたから、歓迎の集いも、その肩身の狭さをそっくりそのまま反映していた。ありあわせの酒肴と白乾酒が素焼きの器になみなみと注がれ、一口ずつ回し飲みをするといった簡単な歓迎会だった」
【張俊河1971】pp.263-269※強調文字、赤アンダーラインは引用者による
⇒参照・引用元:『韓国「反日主義」の起源』著・松本厚治,草思社,2019年03月04日 第1刷発行,pp198-199
張俊河さんが目撃した、「朝鮮独立運動を行い、日本と戦ってきたと喧伝された臨時政府なるもの」は、老人が身を寄せ合ってすすり泣く集団でした。閣僚11人のうち8人は老人(張俊河さんの表現を借りれば「老衰」で「倦怠と弛緩に首まで浸かっていた」)。
そのくせ、内部抗争だけには熱心で多数派工作に必死に取り組んでいました(現在の韓国に通じる話です)。
臨時政府の実態を知った張俊河さんは、閣僚を前にして「これから日本の航空隊に入り、ここに爆弾を落としたい」と叫ぶようになるのです。
重慶に行った朝鮮の若者が「お前らの上に爆弾を落としてやる!」と叫ぶくらいのものだった――というのが本当なのです。
このような実態だった臨時政府なるものを、韓国の教科書では――「臨時議政院」「国務院」「法院」で構成される三権分立に立脚した政府で、独立運動の中枢機関だった――などと書くのです。
『大韓民国臨時政府』なるものについての、世界的な評価は「(朝鮮半島の独立について)何もしなかった」で概ね一致しています。
「二四年にわたり存在し続けているものの、実のあることは何もしていない」
米軍「延安リポート」「資金入手困難となり暗闘絶えず、記念式を挙行し或いは檄文を各地に密送して援助を訴えるのみ」
朝鮮総督府警務局「老朽昏傭 仮名虚偽機関」
『国民党』中央秘書処・李光済
再度、松本先生の著作から引きます。
(前略)
韓国の独立運動は、そもそも存在したのだろうか。ガンジーやボーズ、ホセ・リサール、ケマル・アタチュルク、孫文、スカルノやホーチミンに相当する英雄は、いったい誰なのだろう。
「(韓国の:引用者注)教科書」がいうような激烈な独立運動が戦われたとすれば、当然その指導者が建国の父になったはずだが、それらしい人物がいない。
中国では孫文が、国民党と共産党双方からゆるぎない地位を認められているが、金九は半島の北では黙殺され、南でも国父として扱われることはなかった。
南北二つの国の頂点には、アメリカに四十年近く居住し、韓国語より英語の方が得手だったという李承晩と、ソ連軍大尉金日成が舞いおりてきて座った。
張り上げる声の大きさとはうらはらに、抗日史の貧困は覆うすべもない。
激烈、熾烈な闘争は、核となる史実をほとんど欠いているのである。
(後略)※強調文字、赤アンダーラインは引用者による
⇒参照・引用元:『韓国「反日主義」の起源』著・松本厚治,草思社,2019年03月04日 第1刷発行,p123
つまり「大韓民国臨時政府」なるものは「政府ごっこだった」としか評しようがありません。
衆目が見るところ「独立運動を行っている? ほんとに?」というものだったのです。しかるに、「臨時政府」が現在の韓国政府につながると言い立て、上海で臨時政府ができた1919年こそが韓国の建国年だと主張しています。
滑稽の極みであり、こういうのを歴史歪曲というのです。
(吉田ハンチング@dcp)