アメリカ合衆国は、韓国を為替操作国の疑いをもって見ています。現在も監視対象国のママです。
韓国はかつてウォン安誘導を行って合衆国を激怒させたことがあるのをご存じでしょうか。
固定相場制からバスケット制へ
1945~1980年は韓国は固定相場制でした。しかし、通貨ウォンはどんどん安くなっていきます。1967年01月「1ドル=271.5ウォン」でした。
ここからどんどん切り下げて(ウォンが安くなって)、1980年01月「1ドル=580ウォン」に到達。
しかし、1980年02月に変動相場制への移行を宣言し、このとき『韓国銀行』が採用するとしたのが「複数通貨バスケット制」でした。
これは『韓国銀行』が算出したレートを毎朝告示するというものです。
中身がよく分からない「複数通貨バスケット制」
1980~1990年は「複数通貨バスケット制」は、言葉どおりなら、例えば『IMF』(International Monetary Fundの略:国際通貨基金)のSDRのように、複数の主要通貨に重み付けを行ってそこからレートを組成する――と想像するはずです。
しかし、実際に『韓国銀行』がどのような方法でウォンのレートを算出していたのかがよく分かりません。
例えば、韓国の資料を調べてみても「世界主要国の通貨をバスケットに入れ、主要国の貿易量、金利、国際収支の見通しを考慮して為替レートを決める」といったことが書いてあります。
「世界主要国の通貨をバスケットに入れ」まではいいのですが、「主要国の貿易量、金利、国際収支の見通しを考慮して」という部分は大いに疑問です。
「それはお前の気持ちやん」と突っ込めるもので、実際に当時から「透明性が担保されていない」と批判があったようです。
興味深いのは「国際収支の見通しを……」の部分です。
つまり、固定相場制から変動相場制への移行を宣言はしたものの、市場原理に任せるのは危ないと判断し、国際収支を守るようにレートを決めていたわけです。
「国際収支を守る」の意味は、外貨不足にならないように、輸出が捗(はかど)るように、主要通貨に対して安くレートを設定していたのです。
変動相場制とは名ばかりの「通貨当局による管理相場制」で、恣意的にレートを決めていたのです。
アメリカに激怒されてしぶしぶ切り上げる
この変動相場制のフリをした「複数通貨バスケット制度」については、著名な韓国ウォッチャーである室谷克実先生が以下のように書いていらっしゃいます。
(前略)
この制度に移行してから一九八五年末まで、ウォンは連日安を続けた。八五年末のレートは、一米ドル=八九〇.二ウォンまで落ち込んだ。(中略)
ウォンは一九八五年秋のG5以降、ドルと同テンポで推移した。つまり、あらゆる通貨に対してドル同様の切下げを続けたのだ。
米国は激怒し、八六年春から猛烈な切上げ圧力をかけた。
それを受けて同年秋から、本当になだらかなウォンの対米ドル切上げが始まった。
韓国の通貨史上、初の持続的対米ドル切上げである。八八年十一月には、ついに一米ドル = 七〇〇ウォンの大台を突破した。
産業界は「不当な米国の圧力」を怨嗟する声にあふれ、インテリは「この時ぞ」とばかり、反米を語っている。
(後略)※強調文字、赤アンダーラインは筆者による
⇒参照・引用元:『新版「韓国人」の経済学―これが「外華内貧」経済の内幕だ』著:室谷克実,ダイヤモンド社,1989年01月20日,p115
1985年のG5というのは、いわゆる「プラザ合意」です。この会合では、G5が協調して「ドル安」に誘導することが合意されました。
ところが、韓国はドルが安くなるのにつれてウォンをどんどん切り下げたのです(笑)。
ドル安・ウォン高になると輸出製品の価格戦闘力がなくなって困るからです。
G5が協調してドルウォン安に向かっているというのに……とアメリカ合衆国が激怒するのも当然です。
合衆国は猛烈な圧力をかけ、韓国の通貨当局はしぶしぶ史上初の対ドル切り上げを「極めてゆっくり」行ったのです。韓国の産業界から「怨嗟の声」が上がり、インテリが反米の声を上げた――というのも傑作です。
ウォンは、2022年05月25日現在、2020年のコロナ危機を超えたウォン安水準となっています。しかし、かつてとは違って「ウォン安だからいいや」ではありません。
韓国通貨当局は大変に困っていらっしゃいます。
(吉田ハンチング@dcp)