韓国メディア『ハンギョレ』に興味深い記事が出ています。
『西江大学』のキム・ウクトン名誉教授の「世界文学を翻訳した業績」、併せて同教授の『窮乏した時代の韓国文学』という著作を紹介しています。
この記事では、朝鮮で世界文学が諺文へ翻訳されるようになったの日本に対する抵抗ためだった、などと書いています。
記事から一部を以下に引用します。
(前略)
キム教授は今回の著書で、日帝強占期から解放空間(1945年の日本敗戦から1948年の大韓民国樹立までの期間)まで、この地の作家と外国文学の研究者たちが「世界文学の広場」に向かうため、どのような努力を重ねたのかに焦点を合わせた。崔南善が朝鮮で初めての総合雑誌「少年」を1908年に創刊したのに続き、1914年に再び出した「青春」を通じて、地道に世界文学を紹介した。
その時期の「青春」の読者たちは、日本語からの重訳に加え抄訳したかたちではあったものの、『復活』(レフ・トルストイ)や『ああ無常』(ヴィクトル・ユーゴー)、『ドン・キホーテ』(ミゲル・デ・セルバンテス)のような世界文学の精髄に会うことができた。
(後略)
トンデモ歴史観の震源地
まず、ここに登場する崔南善さんをご紹介してみます。
崔南善さんは1890年生まれ。裕福な家庭に生まれ(漢方薬屋さんという李氏朝鮮にしては珍しい商家)、幼いころから私塾に学び、読書に親しんだ人でした。1904年、14歳のときに日本に留学しています(現在の都立日比谷高校)が、このときは同じ留学生ともめて3カ月で帰国。
その後、16歳のときに再度日本留学(早稲田大学高等師範部)が、このときは年内に帰国。朝鮮に戻った後、憂国の志から父親に頼んで印刷機を買ってもらい『新文館』という出版社を興します。
この後、『ハンギョレ』記事内にある『少年』を創刊。1914年には文芸誌(というか総合雑誌)『青春』を発刊し、李光洙さんと共に運営に当たりました。『ハンギョレ』記事にある海外文学の翻訳ものはこの雑誌に掲載されて人気を博したのです。
崔南善さんは確かに朝鮮での文学隆盛に力を尽くした人でしたが、現在の韓国にまで影響を与えているのは、その歴史観です。
この人は、中国の『山海経』などに登場する「不咸山」というのは朝鮮の白頭山であり、その山麓で栄えたのが「不咸文化」と勝手に定義。この「不咸文化」が古代中国や日本に伝播されて広がったのだ――と妄想しました。
もちろんただの妄想であって、根拠は何もありません。当然、立証もできません。
現在でも「天下った桓雄と壇君の神話」が朝鮮文明(?)の興りであり、それが古代中国と日本の文化の起源になった――などと真顔で言う韓国人がいますが、そのウソの起源は崔南善さんにあると言っても過言ではありません。つまり、この人は韓国のトンデモ歴史観の震源地といえる人物です。
「京都には百済が残っている」といった現在でもしばしば耳にする寝言の源流ともいえます(百済がどんな国ぶりであったのか全く分からないのになぜ現在の京都と比較できるのでしょうか)。
日本から丸ごと移植したので創作もすぐに始められた
『ハンギョレ』の記事に戻ります。「日本語からの重訳に加え抄訳したかたちではあったものの……」とさらっと書いていますが、ここはとても大事なポイントです。
すでに日本語に訳された作品がなければ、世界の文学を朝鮮半島に紹介することはできませんでした。いや、日本が朝鮮半島を併合しなければ諺文を使った韓国の文学だって存在しませんでした。
日本併合前、そもそも李氏朝鮮は「漢文」です。諺文による文学など事実上、影も形もなかったのです。
日本は平安時代に長編小説『源氏物語』が成立しています※1。以降、日本では連綿と創作されていきます。言文一致体ができ、明治時代には私小説まで到達していました。
韓国人は認めないかもしれませんが、諺文を朝鮮で書き言葉として使う基礎を作ったのは福沢諭吉先生です※2。福沢先生がいなければ、そもそも諺文が文学を記述するものにはなりませんでした。
今に続く韓国文学の源流になったのは、総じて日本併合時代に東京で学んだ人たちです。
松本厚治先生の著作から以下に引きます。
(前略)
近代の幕開けの決定的な一時期、伝統として機能したのは日本の語文だった。李人植、李光洙、朱耀翰、金東仁は処女作を日本語で書いているし、西洋文学も日本語訳で読み、韓訳といってもほとんどがその重訳だから、文体や形式への感覚、語法や修辞の規範は、結局日本文学に求めるしかなかった。
明治の文学が丸ごと移植されたのであり(林和)、また移植されたからこそ、語文の転換の直後から創作が可能になったのである。
(後略)⇒参照・引用元:『韓国「反日主義」の起源』著・松本厚治,草思社,2019年03月04日 第1刷発行,p397
松本先生が指摘しておられるとおり、韓国文学なるものができたのは明らかに日本のおかげで、現在のハングルによる文学の源流は朝鮮併合時代の日本由来で新造されたものです。
その土台にたって世界文学を翻訳し、しかも重訳だったわけですから、同記事のいう「世界文学の精髄」に出会えたのも日本のおかげです。
日本併合前の李氏朝鮮はひたすら中国を敬い、他の国を野蛮な国として世界に背を向けていたわけですから『ああ無情』も何もありません。
世界文学を評価し翻訳しようなどというモチベーションがあるわけないのです。
ちなみに、現在では『レ・ミゼラブル』となっているヴィクトル・ユーゴーの名作を『ああ無情』(噫無情)と訳したのは黒岩涙香先生です(1902年~1903年『萬朝報』に連載)。
日本への抵抗で世界文学を翻訳した?
『ハンギョレ』の記事はまた以下のようにも書いています。
(前略)
植民地時期の世界文学への熱望の根源は何だったかという質問に、著者は二つを挙げた。「一つは、日帝に対する抵抗でしょう。あからさまに抵抗することははできないので、日帝の監視を避けられる世界文学の議論で抵抗したのでしょう。(後略)
「世界文学への熱望の根源の一つが日帝に対する抵抗」などと述べています。
これはキム教授の感想ですが、本当にそうでしょうか?
この『ハンギョレ』の記事は、現代につながる韓国文学の創世記といっていい時期に、後の名だたる文学者が総じて日本の影響を受けて創作活動を始めたこと、しかもそのツールとなった「語文」を日本人(代表者を1人挙げるなら福沢諭吉先生)が新しい基盤として再定義し広めたこと――をすっかりなかったことにしています。
日本語や日本文学の影響を受けて整備されたものの上に立って、日本への抵抗などというのは滑稽という他ありません。
当時の朝鮮の文学者が世界文学を翻訳したのは、何よりその作品が傑作で、もっと多くの朝鮮の人に読んでほしかったからではないでしょうか。
※1紫式部先生は宮中では「漢字の一も書けません」というフリをするヘンな人でした。
※2福沢諭吉先生が書生だった井上角五郎さんに「朝鮮に行って新聞を発刊せよ」と教えたのが始まりです。前身であった漢文新聞『漢城旬報』が廃刊の憂き目に遭うなど紆余曲折がありましたが、1886年に朝鮮で初めて諺文を用いた新聞『漢城周報』の発刊にこぎつけました。
(吉田ハンチング@dcp)