土曜日なので、読み物的な記事を一つ。
K-POPの源流と現在に至る道を解説した山本浄邦先生の『K-POP現代史』という面白い本があります。
筆者のような音楽的な素養・教養が全くない人間でも、韓国における大衆音楽がどのように発展してきたのかが俯瞰できる好著となっています。
現在のK-POPの隆盛につながる源には日本の歌謡曲の影響があります。源流の一つは明らかに80年代初頭のジャニーズ事務所のアイドルです。
日本人はほとんど知りませんが、近藤真彦さんの大ヒット曲『ギンギラギンにさりげなく』は韓国でもヒットしています。
もっとも当時は、日本文化は輸入禁止。規制は歌謡曲にも及んでいましたが、どうも釜山経由でソウルに達し、1984年にはなぜかみんな知ってる曲になったとのこと。
違法コピーのカセットが流通し、ディスコクラブやローラー場でかけられたのが原因といわれます。同曲は「ギンギラギン」と呼ばれその時代を代表する日本の歌謡曲として記憶されました。
1984年には、『ギンギラギンにさりげなく』をパクったとされる『빨주노초파남보』が登場しています(以下)。
山本先生は以下のように書いていらっしゃいます。同著から一部を以下に引用してみます。
(前略)
八〇年代に入ると田原俊彦や近藤真彦がジャニーズ事務所からデビューし、アイドル全盛期を迎えた。近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」(一九八一年)や田原俊彦の「ラブ・シュプール」(一九八二年)などもまた、筒美京平の作曲によるディスコ曲であった。
このようにして、アメリカ音楽の影響のもと歌って踊れるアイドル歌手がジャニーズ事務所から次々と生まれていったのである。
こうしたジャニー喜多川によるエンターテインメントの最高傑作とされるのが、三人組男性グループの少年隊である。
少年隊は一九八五年十二月に「仮面舞踏会」でデビューするやいなや各音楽チャートで一位を獲得し、瞬く前にトップアイドルとなった。
(中略)
韓国のエンターテインメント業界で、日本の少年隊の活躍に注目したのが、のちのDSPメディアを設立してKARAなど多くのK-POPスターを世に送り出したイ・ホヨンであった。
イ・ホヨンは、「韓国芸能界のゴッドファーザー」ことハンバッ企画のヤン・スングクに誘われて一九八一年に業界入りし、同社に勤務していた。
イ・ホヨンはヤン・スングクとともに、韓国でも少年隊のようなアイドルを育成したいと考え、一九八七年に少年隊からインスピレーションを得た消防車を結成し、デビューさせた。
消防車はチョン・ウォングァン、イ・サンウォン、キム・テヒョンによる三人組男性グループで、少年隊を模倣したアクロバティックなパフォーマンスを取り入れた「ゆうべの話」(オジャパム・イギヤ)が大ヒットした。
(後略)⇒参照・引用元:『K-POP現代史――韓国大衆音楽の誕生からBTSまで』著:山本浄邦,ちくま新書,2023年04月10日,第1刷発行,pp074-076
なぜまた『消防車』などという珍奇なグループ名になったのか、日本人は不思議に思うかもしれませんが、これはメンバー3人が赤をトレードカラーとするジャンパーをきており、それが消防車をイメージさせるから、だそうです。
↑『消防車』の「ゆうべの話(オジャパム・イギヤ)」
『消防車』の「ゆうべの話」は、日本でも有名です。テレビ番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」内で、「オジャパメン」というタイトルで片仮名カバーされたからです。
↑「オジャパメン」として片仮名カバーされました。
ハングルは分からなくても「オジャパメン」の「オジャパメン ナネガミオオソ」「ツンツルテンマタン」という歌詞を今でも覚えている――という人がいらしゃるのではないでしょうか。
原曲の「ゆうべの話」は元気のいい楽曲ではありますが、実は、男女の気持ちのすれ違いをテーマにした歌詞なのです。
ともあれ、ジャニー喜多川の最高傑作とされる「少年隊」をオリジナルに「消防隊」を大ヒットに導いたイ・ホヨンさんは、アイドル産業が成立することに自信を深め、一九九一年に独立。『大成企画』(後の『DSPメディア』)を立ち上げ、K-POPの発展に尽力することになるのです。
K-POPの源流の一つに日本のアイドルがあるのだとすれば、ジャニーズメソッドがK-POPを発展させたといえるのではないでしょうか。
(吉田ハンチング@dcp)