韓国は中東に進出してひどい目に遭った。最後は蜃気楼に……

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韓国が初の原発輸出を行ったのはUAEのバラカ原発で、この後輸出実績はまだありません。しかし、なぜまた中東に?と思われる方は多いのではないでしょうか。

Money1でも先にご紹介しましたが、文在寅前大統領は任期末期に中東歴訪を行い、武器輸出について話し合ったりしています。

これまた「なぜ中東だったのだろう?」と思われるかもしれません。

若い世代の皆さんはご存じないでしょうが、実は韓国の企業はかつて大挙して中東の仕事を一生懸命とっていた時代があったのです。その時代の「よかった体験」がいまだに韓国企業に残っているのかもしれません。

ただし、一生懸命といっても最後はぐだぐだになってひどい目に遭ったのですが。

今回は少し昔話になってしまいますが、なぜ韓国が現在でも中東とつながっているのか、隙あらば韓国製品を売ろうとするのかについて理解する一助となりますので、韓国の中東建設ラッシュ時代についてご紹介してみます。

韓国が最貧国だったころに輸出大国を構想!

時は、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の時代にまでさかぼります(大統領だったのは1963年12月17日~1979年10月26日)。

この朴正煕(パク・チョンヒ)という人は1961年にクーデータによって政権を握り大統領になりました。朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の時代は、韓国の高度成長が始まり、30年間にわたって続いたいわゆる「漢江の奇跡」の起点でした。

軍事独裁政権だったため批判はされますが、とにかく韓国を豊かな国にするために手段を選ばず努力した人物だったことは確かです。

輸出を可能な限り増やすとし、「1978年には輸出で100億ドルを達成する」という目標を掲げ、韓国製品を海外に売り込む総合商社を優遇。

政府が認可した総合商社に金融、税制、外国為替の優遇を注ぎ込みました。

現在からすれば、100億ドルなど小さな数字ですが、当時韓国は自らを世界最貧国とみなすほど小さな国だったのです。

ちなみに、総合商社を優遇したのは日本をまねてのこと。日本でも有名な瀬島龍三さんが関わっています。また、現在の韓国が輸出偏重の国であるのも、その根幹は朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の政策が基になっています。

「中東の建設ラッシュ」は韓国にとって神風だった!

朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代はとにかく開発ラッシュの時代でした。ところが、韓国は1973年の第1次オイルショックによって深刻な経済的苦境に陥るのです。

現在の韓国につながる話ですが、原油価格が高騰し、貿易赤字が累積。外貨が足りなくなりました。韓国はとにかく高利でもいいからとドルをかき集め、デフォルトはしないで済みました。

苦境になった韓国に救いの手が入ります。他ならぬ中東の産油国です

原油価格が高騰したので中東産油国は莫大な資金を手にし、それが海外への資金投入につながったのです。不動産や企業を買い占めるのみならず、自国内の道路、港湾、エネルギープラントなどのインフラ整備に莫大な資金を投じました。

韓国の建設会社がこれに乗っかりました。

これまた現在の韓国に通じる話ですが、無茶苦茶な安値でどんどん受注を積み上げたのです。

池東旭先生の著書『韓国財閥の興亡』から引くと以下のような具合です。

(前略)
米軍がベトナムから引き揚げた一九七三年以降、新しい海外市場を求めて駆けずり回っていたときである。

中東産油国の工事発注は神風だった。

韓国業者は初め欧米建設会社の下請けになって参入した。しかしノウハウを習得して下請けでなく、元請けとして、じかに工事入札に参加した。

低賃金の韓国人労働者を基準にした工事見積もりは、欧米業者の入札価格の三分の二にもならない。

しかも韓国業者は銀行の工事完成保証、瑕疵かし保証を容易に提出できた。

海外発注元は入札者に工事履行に対し銀行保証を求める。食い逃げされる恐れがあるからだ。

だが一般的に銀行は建設工事の保証を忌避する。リスクが高いからだ。

韓国政府は銀行に海外建設工事の保証を強要した。

銀行も当初渋ったが、保証料収入が増えるにつれ、進んで保証を引き受けた。

低賃金を武器にした建設業は、高度の技術を要さない道路、住宅、港湾、アパートなど建設工事を次々受注した。中東建設は韓国の新しい金脈になった。
(後略)

⇒参照:引用元:『韓国財閥の興亡 癒着と相克のドラマ』著:池東旭,時事通信社,2002年02月05日発行,pp.111

強調文字、赤アンダーラインは筆者による

安値受注して、政府が銀行に保証を強要――という下りはまさに現在の韓国にもつながる話です。

韓国政府、そして企業(+銀行)が一緒になって中東の建設工事ラッシュに入れ込んだのは支払いの面で非常な優遇があったためでもあります。

当初は着手金として20%も(しかもドルで)もらえたのです。

韓国の建設会社はこのお金をどうしたかというとウォンに換えて不動産に突っ込みました。なにせ不動産が爆上げしていた時期なので、確実にもうかる投資でした。工事にかかる費用はどうしたかというと、工事代金を担保にして現地の金融で借りるのです。

現地の工事で赤字になろうが最初の「着手金 ⇒ 不動産投資」の上がりで黒字になるというトリックです。

あまりにもうかるというので、猫も杓子も中東建設市場に参入。政府も業界からの圧力に負けて許可証を乱発する始末。

――で、どうなったでしょうか?

ダンピング合戦で蜃気楼のように消えた

これまた現在の韓国につながるのですが、業者同士の「ダンピング合戦」です。

これによって採算が急速に悪化。中東産油国もバカではありません。着手金を絞るようになり、これによって収益性がさらに悪くなります。

その上、ダンピング合戦によって工事の質も落ち、施工管理もずさんとなってクレーム頻発、工事代金の支払いが滞るようになって……放漫経営だった建設会社が次々と経営難となりました。

池東旭先生の表現を借りれば「中東ブームは七〇年代末、熱砂の上に築かれた壮大な蜃気楼だった」のです(上掲同書p.114より引用)。

――というわけで、韓国は一時期中東の建設工事に入れ込んでいたことがあります。韓国にとって中東の産油国というのは、実は非常に因縁深い場所なのです。

(吉田ハンチング@dcp)

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