アメリカ合衆国と中国の新冷戦の焦点が「台湾」となり、もはや戦争一歩手前といってもいい状況です。台湾統一は、中国共産党の悲願であり、実は中国人民解放軍(略称「PLA」)は1950年に台湾侵攻作戦を行う予定でした。
『毛沢東の朝鮮戦争-中国が鴨緑江を渡るまで』(朱健栄,岩波書店,1991年)にはその準備の模様が生々しく描かれています。少し長いですが、以下に引用します。
一九五〇年春、五百四十万の解放軍が大陸を制覇した後、戦闘の主舞台は沿海島嶼の争奪に移った。五月一日、第四野戦軍は台湾に次いで二番目に大きい島、海南島を攻略した。
一方、台湾侵攻をめざして、第三野戦軍の数十万大軍は福建沿海で、夜に日を継いで渡海訓練を行っていた。
その矢先に朝鮮戦争が勃発し、アメリカ第七艦隊が台湾海峡に介入したのである。
シモンズの研究は、朝鮮の恣意的な開戦決定によって、その余波で七月中に予定されていた台湾侵攻計画の延期を余儀なくされ、中国はピョンヤンに非常に不満を持っていたとしているが、筆者の調査によれば、中国が六月以前から積極的に台湾攻撃の準備をすすめていたのはたしかであるが、七月または八月の実行計画は実際なかった。
⇒引用元:『毛沢東の朝鮮戦争-中国が鴨緑江を渡るまで』朱健栄,岩波書店,1991年,p.106
※読みやすいように行った分け書き、強調文字、赤アンダーラインは本稿筆者による(以下同)
また、以下の部分にも注目です。
五〇年一月、併せて五十万の大軍を動員し、十二個師団を第一陣の渡海作戦兵力とする台湾攻略作戦が計画され、年内の実施も予定された。
しかし、四九年十月下旬の金門作戦の失敗が大きな転換点となり、その後、毛沢東は渡海作戦の計画に極めて慎重となり、十分な準備態勢を整えることが台湾侵攻のための前提条件だと強調するようになった。
⇒引用元:同書p.107
当時の中国共産党指導者、毛沢東は「やる気」だったのです。
ここで触れられている「金門作戦の失敗」というのは、今も(一応)台湾に属している金門島の攻略作戦のことです。これは1949年に頓挫しました。しかし、台湾攻略の準備は着々と進められました。
台湾侵攻作戦の準備の重点は空軍、海軍、パラシュート部隊など、諸兵種、軍種の創設に置かれた。
⇒引用元:同書p.108
のですが、空軍の育成に非常に時間がかかったこと、海軍が全く脆弱で役に立たなかったことうを理由に、台湾侵攻作戦は1950年06月28日の「中央政府第八次会議」直後に準備の中止となります。
特に海軍の脆弱さは以下のようなものでした。
⇒引用元:同書p.109
これが現在も台湾が人民解放軍に支配されていない理由です。
上掲のとおり、毛沢東と中国共産党は台湾侵攻を完全にやる気でした。翻って現在です。毛沢東になるつもりなのかといわれる習近平総書記はどうでしょうか。
条件がそろったら、中国共産党の悲願を達成するために実行しそうだとは思われないでしょうか。
(吉田ハンチング@dcp)