金錫源という人をご存じでしょうか。若い読者の皆さんはほとんど知らないでしょう。
まず田中明先生の著作から以下に引用します。
(前略)
それまで私は、韓国で武がそれほど疎まれているとは知らなかった。壬辰・丁酉の乱(日本で言う文禄・慶長の役)で日本の水軍を何度も撃破した名将・李舜臣の事蹟については、かねてからよく聞かされていたし、日中戦争の初期には、小学校の五年生ながら、新聞では金錫源という朝鮮人部隊長の勇敢な奮戦記を読んでいた。
独立後、その金部隊長が朝鮮戦争でも勇猛果敢ぶりを遺憾なく発揮したことも聞いていた。
それによると、北朝鮮に押され放しだった緒戦、野武士のように日本刀を背中に担いだ金部隊長は、部下を叱咤激励し、他の部隊が後退したのちも陣地を死守していた。
国連軍司令部は、金部隊だけが突出しているので、戦線整理のため後退を命じたが、金部隊長は退却などできるかと、なかなか言うことを聞かないために往生した――とのことである。
(後略)⇒参照・引用元:『物語 韓国人』著:田中明,文藝春秋,2001年8月20日 第1刷発行,pp60-61
※強調文字、赤アンダーラインは引用者による。
この金錫源という人は、ひと言でいえば「豪傑」です。
軍人を志し、日本帝国陸軍、陸軍中央幼年学校予科(これが後に陸軍士官学校になる)に入校。1915年に第27期卒業。
1915年12月:陸軍歩兵少尉
1917年:歩兵中尉
満州に出征(初の実戦)
1931年:満州事変が勃発
大尉として出征。馬占山軍と交戦
日中戦争
歩兵第78連隊第3大隊長(少佐)として北支戦線に従軍
1937年07月25日:
「北京東南方10キロ地点に位置する団河村一帯の敵を掃討して、行宮高地を占領せよ」との下命を受けて出撃
27日に占領。
1937年07月の戦いでは、1個大隊で1個師団の中国軍を撃破したと称賛されています。金錫源さん自身の弁では、日本側の兵力を過大評価した中国軍が避戦・撤退したとのこと。
圧巻は1938年の山西省東苑の戦闘です。以下にWikipediaの記述を引用します。
(前略)
1938年2月、山西省東苑の戦闘に参加。2月21日、霊石の総攻撃が開始され、中国軍の右側背面を攻撃するよう命令を受けた。
翌日、中国軍が反撃し、約3時間の激戦が繰り広げられた。
この時、金錫源の大隊は進撃速度が速すぎたため、連隊との連携が取れず、陝西軍第86師(長:高双成中将)に包囲された。
全滅も時間の問題であったが、奇策を思いつき、中国軍にも聞こえるように大声で「皆よく聞け!今すぐ3千名の増援部隊が到着しするので安心して戦い、現陣地を死守せよ」と言った後、自分の部隊にだけ聞こえる低い声で「諸君、今日で最後だ。もう少し頑張って最後の突撃だ。持っている煙草を全部吸え。そして軍歌を声高らかに歌い、狂ったように踊れ。万歳を叫べ!」と告げた。
こうして350名の全将兵が一斉に煙草に火をつけ、軍歌を歌い、踊り、万歳を叫んだため、実際の人数より遥かに多いように感じられた。この奇策が功を奏し、中国軍は撤退した。
こうして2個中隊をもって第86師を撃退し、この功績から、朝鮮人としては初の功三級金鵄勲章を授与された。
また、なかなか貰うことができない北支那方面軍司令官名義の感状が部隊に与えられた。
この事から当時の朝鮮では、『金部隊長奮戦記』、『金錫源部隊激戦期』、『戦塵余談』といった金を称える記事が連日メディアにおいて発表され、崔南善の作詞で『金少佐を思う』という歌までが作られた。
(後略)⇒参照・引用元:『Wikipedia』「金錫源」
まるで『のらくろ』に登場するようなエピソードですが、金錫源さんが部隊を率いて中国軍を撃退したのは歴史的事実です。
田中先生(1926年生まれ)は小中学生のとき京城(現在のソウル)で暮らしていらっしゃいましたが、前記のとおり、新聞などのメディアで金錫源さんの奮闘ぶりを読んでいたとのこと。
第二次世界大戦後、金錫源さんは朝鮮戦争勃発に伴い首都師団長として軍に復帰。釜山橋頭堡の戦いでは第3師団長として困難な海上撤退作戦(長沙洞撤収作戦)を成功させ、マッカーサーから称賛されています。
金錫源さんは、その戦歴からいっても朝鮮半島が生んだ最強の野戦指揮官といえるかもしれません。
このような筋金入り、歴戦の勇者なのですが、韓国では親日派と認定され非難の対象としました。
李承晩(イ・スンマン)大統領が首都から逃げ出し、日本に亡命政府の受け入れを打診するような状況にあって、弱兵であった韓国軍を率い最前線で戦った人物の功績を否定しようというのです。
まったく愚かな所業という他はありません。
(吉田ハンチング@dcp)